Bogey-Don
西国街道探索
土山駅〜西明石駅


一日では走破できず、二日がかりでした。

<2021年1月31日(日)>

なんとなく、前から考えていたこと「西国街道」を歩きます。
昔の名残を感じられる物を探しながら・・・

参考にしたのはNETで発見した
「西国街道道中の記録」
です↓
http://k-yagumo.sakura.ne.jp/web/saigoku.html

この西側は・・<2021.9.23.東加古川駅〜土山駅
この東側は・・<2020.12.14.西明石駅〜朝霧駅

この日は
JR神戸駅から土山駅に着いたのが10時半でした。

@JR土山駅前

山側の出口です。

駅前の通りを真っすぐ北上・・

国道2号線の土山交差点を超えて・・さらに北上・・

県道84・・です・・
次の交差点・・左側に地蔵堂があります。
A西国街道への地蔵堂


地蔵堂



此処で右折です・・


地図1





県道208との交差点にでます・・向こう側の左に・・

B松本稲荷

御稲荷さんの脇には・・

地蔵堂もある・・


松本稲荷



この稲荷神社は、兵庫県神社庁のホームページにも載っていない??

さらに真直ぐ・・



古めかしい家々が・・

この辺の地名は・・清水新田

左側に・・お墓かな?

手前には地蔵堂・・




C清水新田宝篋印塔





「西国街道」と書かれている・・
以下はNETの中で見つけた説明
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江戸時代後期の建立と考えられています。
西国街道を往来する旅人が旅の途中で命を落とすことも珍しくなかったので、
行き倒れになった旅人を供養するために建てられたのではないかといわれているそうです。
元はここから30m程東北東にあったのですが、老朽化が進んで倒壊寸前だったので墓地の整備に伴って移設されたとか。
移設前は左側にある台座の上にあったそうです。
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さらに少し進むと・・

左側に・・墓地が・・

墓地の入口には・・

D墓地のお地蔵さま
たくさん並んでいる・・

道路整備の時に、旧西国街道にあったお地蔵様を集めて祀ったのかも?

さらに真直ぐ・・


地図2



川が見えてきた・・

E清水川・清水橋

上流

下流


さらに真直ぐ・・

また川です・・


F瀬戸川・瀬戸川橋

上流

下流


さらに真直ぐ・・

右の角に・・
道標が・・



左から・・「是より はりま名所道」 「左 別所でまくら松 をのへのかね 高砂相生の(?松)」 「右 岩岡あかしみち?」

その向かい側には・・地蔵堂が・・


地蔵堂のすぐ東が・・
G西福寺





蝋梅♪



此処は西国街道と関係ありそうな情報は無いのだが・・
この先で出てくる
石造五輪塔
は、このお寺が所有者らしい・・
ってことは、古いお寺でしょう。

さらに真直ぐ・・



この左側に・・

H清水神社







本殿

一般社団法人 明石観光協会 (yokoso-akashi.jp)
によれば・・
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江戸時代初期、古くからこの地に祀られていた帝釈天と、
他の村から勧請した王子権現を合わせて祀ったのがこの神社のはじまりと言われています。
田植えの後の6月下旬に豊作を願って行われる伝統行事「オクワハン」が有名です。
新田開発が進んだ江戸時代にはじまった神事だと言われ市無形民俗文化財に指定されています。
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とのこと

神社から少し歩くと・・
地図3


東のすぐ右側に・・

お墓が・・

その真ん中に・・

I石造五輪塔





兵庫県指定文化財♪
以下はNETの中で見つけた説明
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貞和2年頃(南北朝)に、南北朝時代の戦死者を弔うために造られたとされています。
清水神社の祭りの2番の囃子(はやし)に出てくる「楠木正行(まさつら)」が皇居に参内した後、
決死の覚悟で挑んだ「四条畷の戦い」が貞和(じょうわ)4年になります。
秋祭りにはこの物語を歌いながら、太鼓屋台を神社で練っています。
この形は上から順に「空」「風」「火」「水」「土」の意味があり、
古代インドでは5大構成要素とされていた物の組み合わせです。
仏教がインドで起こり、中国に伝来され、日本にも伝えられたのでしょう。
この塔の所有は近くにある西福寺、やはり仏教が関連しています。
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さらに真直ぐ・・

少し進んだ左側には・・

J流慶不喝の碑





以下はNETの中で見つけた説明
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「この碑は昭和初期に建立された。従来清水の郷は猪谿谷から引水して池(覚念池)をつくり田に灌漑していたが、
弘化年間(一八四四年〜四六年)に小束山周辺を開墾し増設した人が、この清水の郷の水路を横取りしてしまった。
そのため清水の郷の池は枯れ用水に困り近辺は旱害にさらされ、収獲(ママ)に大きな支障をきたした。
これに対して明治六年石井太右衛門をはじめとする五氏が身の危険を顧みず、訴えをおこし勝訴の結果、
これまでの水路を従来の形にかえされることになった。」
旧清水村の灌漑用水確保に貢献した先人の労苦を称えて昭和初期に建てられたもので、
刻まれている功労者五氏の筆頭は、この近くに旅籠を営んでいた明石屋の二代目太右衛門です。

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とのこと・・

さらに真直ぐ・・


K信号のある交差点

さらに真直ぐ・・


右側には
L
魚住小学校が・・

此処を右折・・チョット寄り道です・・

小学校の正門の前に・・


M浜西神明神社



浜西神明神社|兵庫県神社庁 神社検索 (hyogo-jinjacho.com)
によれば・・
寛永2年(1625)、創立。明治7年(1874)、村社に列せられる。
とのこと・・

また元の道に戻って、
地図4



真直ぐに・・

N県道379との交差点

この日は・・此処まで歩いて、
既に午後1時半・・一旦ここで撤退です。
ここから約2Kmほど歩いて・・JR魚住駅に向かいました。
それが意外に遠い、おまけに下り坂です・・明日また此処から始めるには、
朝から上り坂を歩くのは???笑。

OJR魚住駅
に着いたのは・・午後2時ごろでした。

<2021年2月1日(月)>
前日に撤退したところまでの道のりが長い上り坂だったので、
歩かずに行く方法を調べました。

撤退した場所のすぐ近くに「長池中」バス停があるのを地図で発見。
魚住駅発8時54分のバスに乗ることにしました・・

OJR魚住駅
バスの出発ぎりぎりに駅に着いたので、
駅舎を撮影する時間なし。

NETの中から頂いてきました。

タコバス

N県道379との交差点

8時59分・・出発です。

地図5


右側には・・お屋敷風♪

左側には・・

地蔵堂があります・・




少し進むと

左側には、

P長坂寺(ちょうはんじ)遺跡





奥の方には普通の人家が・・

以下はNETの中で見つけた説明
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(2009年の記述)
兵庫県立考古博物館(播磨町)が明石市魚住町の長坂寺(ちょうはんじ)遺跡で地中レーダー探査をし、
地下に人為的な直線区画があることがわかった。現地に残る田んぼの区画と合わせ、一辺約80mの正方位を向く方形区画が復元でき、
古代山陽道の駅家「邑美駅(おおみのうまや)」跡と見ている。
 長坂寺遺跡は奈良時代の瓦が出土したことから、古代寺院跡と見られていた。しかし故高橋美久仁・元滋賀県立大教授らの研究で、
長坂寺遺跡のすぐそばを山陽道推定ルートが通ることなどから、平安時代の「延喜式」(注1)に記載された明石駅と賀古駅のほぼ中間地点にあたる、
古文献に記載のない幻の駅家(仮称「邑美駅」)があり、統廃合で廃止されたと考えられている。
 探査は1月、日本文化財探査学会の協力で実施し、レーダー探査機で電磁波を地中に発射し、その反射波を受信して画像に表示した。
 自然地形ではできない直線的な筋がいくつも見つかった。これらの結果と地表の様子を総合すると、1辺約80mの方形区画が浮かび上がるという。
山陽道の駅家跡と確認されている、たつの市の小犬丸遺跡(布勢駅(ふせのうまや))や加古川市の古大内遺跡(賀古駅(かこのうまや))では、
約80m四方の区画(駅館院(やくかんいん))が判明している。
 調査地の地下には何らかの遺構が残っている可能性が高いとみて、同博物館は今秋以降に再度レーダー探査をし、
地権者の理解が得られれば来年度以降に発掘調査を検討する。
[参考:朝日新聞、明石市教育委員会HP]
(2011年の記述)
兵庫県立考古博物館の調査で長坂寺(ちょうはんじ)遺跡(明石市魚住町)が、古代山陽道の明石駅と賀古駅のほぼ中間地点にあたる、
古文献に記載のない幻の駅家(仮称「邑美(おうみ)駅」)である可能性が限りなく高まったとする。
 平成20、21年度の2年間にわたる地中レーダーによる探査の結果、
反応があった溝状の「落ち込み」に囲まれた一辺80mの規模の方形区画の発掘調査を実施した。
 遺跡から、東西南北に走る直線的な溝跡があることがわかったほか、溝の内側からは、建物の柱の穴も見つかった。
見つかった溝の方向を結んでみると、ほぼ東西南北の方位に向く80〜90m四方の方形区画となることを確認した。
これまでに明らかになっている布勢駅家跡(たつの市)や賀古駅家跡(加古川市)の中枢施設である「駅館院(やっかんいん)」の規模に一致するという。
[NHK神戸放送局、兵庫県立考古博物館HP]
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とのこと・・

真っすぐ行きます・・


石碑が・・


Q小式部内侍祈りの松道標

全然読めないけど・・
正面は「魚住之太子道
 左面は「小式部内侍祷之松」と刻まれているらしい・・
・・・
以下はNETの中で見つけた説明
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「魚住之太子」は、魚住町長坂寺にある足留山遍照寺のこと。
もとは廃寺となった長坂寺の28あったという塔頭のひとつで、聖徳太子を開基、行基を開山とする寺院です。

「小式部内侍」は平安時代の歌人で、和泉式部の娘。
「祷之松」は、「いのりのまつ」と読みます。
遍照寺に、「小式部内侍祷之松縁起」が伝わっています。
小式部内侍は、権中納言・藤原公成の子を出産後、母に先立ち病死しました。
娘の小式部内侍の死を悼んで、姫路の書寫山圓教寺に性空上人を訪ねた和泉式部は、その帰途、長坂寺にこもって法華経を読みます。
数日祈っていると香の煙の中に、小式部内侍が現れたといいます。
そこで都に戻った和泉式部は、第66代・一条天皇から小式部内侍ゆかりの松を譲り受けて、長坂寺の近くに移したそうです。
その場所に寂心上人(『日本往生極楽記』を著した慶滋保胤)が小式部内侍の供養塔を建てて供養したとされています。
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とのこと・・

さらに真直ぐ・・右の池は「古前中池」

左側には・・お屋敷♪

さらに真直ぐ・・




R亥ノ池北バス停

さらに真直ぐ・・

地図6







金ケ崎文化センター駅の横が・・

S正覚寺





以下はNETの中で見つけた説明
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「室町時代の文明2(1470)年に釈浄誓(俗名:佐藤時信)が開きました。
本尊の阿弥陀如来は、織田信長が豊臣秀吉に与えたものを寺に納めたと言われています。
寺宝に親鸞上人自作の上人寿像(座像)があります。一寸八分の観音様には「かぶと観音」、「焼け残り観音」の伝承があります。」
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とのこと・・

さらに真直ぐ・・

三叉路にでました・・


左側に・・
(21)左大山寺道道標

「左 大山寺道」と刻まれている・・

以下はNETの中で見つけた説明
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山陽道(西国街道)との分岐点である明石市魚住町金ヶ崎にある太山寺道の道標です。
この地が分岐点となったのは太山寺と山陽道の最短距離の地点がこの場所であったからと言われています。
金ヶ崎の地は山陽道と太山寺道の分岐点ということもあって茶店や宿など小さな宿場的機能もあったそうで、
太田蜀山人の『革令紀行』には「田間をゆきてかなが崎にいたる、人家多し、そば麦うるもの多くみゆ 左に太山寺道あり」と記しています。
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ちなみに、此処から太山寺の方向と、
西国街道が向かう旧明石城下町の方向は・・

こんな感じです。

右の道が西国街道です・・

すぐに
(22)鳥居のある交差点
に出ます・・

左の鳥居は・・
(23)金ケ崎神社
の参道に通じます・・









兵庫県神社庁 (hyogo-jinjacho.com)
によれば・・
創立年不詳。 黒岩神社と崇める。
 明治7年(1874)、村社に列せられる。
明治40年(1907)、住吉神社を合祀。神社名を今に改める。

さらに・・ 以下はNETの中で見つけた説明
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明治7年(1874)黒岩神社として金ケ崎の村社となる。
明治40年(1907)4月30日黒石神社は住吉神社を合祀して金ヶ崎神社に改称した。
御神体は1.8mもある黒石である。この黒石は年々太っていくと信じられています。
祭神は磐長姫命(いわながひめのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)、
中筒男命(なかつつのおのみこと)、底筒男命(そこつつのおのみこと)及び氣長足姫命(おきながたらしいひめのみこと)の5つです。
裏山は明石で1番高い標高80mの金ケ崎山で鎮守の森として今でも良い自然美を保っています。
江戸時代、旅に出るときには石をお守りとして持って行き無事に帰ってくると倍にして返す風習があったようです。
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とのこと・・

さて・・また元の道に戻って

交差点を渡って・・真直ぐ・・

(24)広い駐車場

此処を過ぎて、少し進むと・・

地図7


あら・・

この先で道が無いのか??

(25)突き当りの階段

突き当りは階段になっている・・笑。
上にあがると普通の道路(笑)

此処で右折しました・・真直ぐは行けないし・・

(26)国道2号線大池東交差点

交差点を南にわたって・・振り返ると

行き止まりになった建物は・・コカ・コーラの工場でした・・

国道2号線を東に・・


赤根川・西脇橋
上流・・

下流




さらに真直ぐ・・


(27)大久保西交差点

ここで東にわたって・・右折・・

最初の道を左折です・・

地図8



右側に・・

(28)播磨八十八個所の道標

「是 播磨八十八箇所」 「左 住吉社二見道」

真直ぐ東へ・・

交差点に出ます・・

右に行くと・・JR大久保駅前に出ますが・・

交差点を渡って・・
さらに真直ぐ・・



次の交差点の右側に・・

(29)「大久保村道」道路元標


さらに真直ぐ・・

交差点を渡って・・

次のT字路を過ぎると・・

(30)明治天皇大久保御小休所建物



以下はNETの中で見つけた説明
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1885年(明治18年)8月9日、安藤家洋館の場所(旧安藤彌三太宅)が明治天皇山陽道ご巡幸中の御小休所となりました。
なお現在残っている洋館は1919年に建てられたもので、明治天皇はこの洋館では休憩されていません。
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さらに真直ぐ・・

左側に川が・・

この先には・・


(31)東川・大谷橋
上流

下流

JRの高架が見える・・


川を右に見ながら・・

進むと・・右側には・・・

西・神輿蔵


さらに真直ぐ・・また川が・・


(32)谷八木川・大久保橋
上流

下流

JRの高架が見える・・

橋を渡って・・

左の家の玄関に・・

地蔵堂だが中にお地蔵さんはいない??
さらに真直ぐ・・

(33)本陣・安藤家





以下はNETの中で見つけた説明
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山陽道(西国街道)の宿場は一般には大蔵谷宿の次は加古川宿となっていますが
江戸時代に入ると参勤交代の制度化に伴い大久保宿を正式に設置、
明石藩が駅馬の飼料を提供しており松平信之が藩主時代には安藤助太夫が本陣、
林屋与兵衛が脇本陣を務め、宿場町の発展とともに大きな旅籠十数軒や蹄鉄屋・車大工なども軒を並べていたそうです。
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とのこと・・

さらに真直ぐ・・

地図9


ちょっと行くと・・


(34)常徳寺





注目すべき情報はなかった。

お寺の向かい側には・・
地蔵堂




さらに真直ぐ・・

東・神輿蔵を右に見ながら・・

(35)最初の道を右折
大久保町の住吉神社に向かいます。
ひょっとすると西国街道からは外れるかも??
でも、昔なら西国街道から良く見えるところにあったと思います。



JR踏切が見えました・・

渡ります・・

渡ったら右に回り込むと・・

(36)住吉神社







兵庫県神社庁 (hyogo-jinjacho.com)
によれば・・
天正16年(1588年安土桃山時代)に創建され、寛永6年(1629年江戸時代)社殿を再建した。
明石城主松平齋韶公に、金燈篭一対を献上、大久保町新田高157石3斗7升2合を賜る。
その後、明治6年(1873)11月大久保庄首位の神社(郷社)に列せられる。
御神徳:家内安全・商売繁盛・災厄消除・縁結び・海上守護の神として、ご神徳広く崇敬される。
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とのこと・・

神社の前には・・
地蔵堂






また踏切を渡って・・

元の道に・・

戻ります・・

真直ぐ・・

(37)左側にスーパー
が見えます・・

此処は、国道2号線の森田交差点に面しています・・
さらに真直ぐ・・

左側には・・

(38)住吉神社



兵庫県神社庁 (hyogo-jinjacho.com)
によれば・・
創立年不詳。 初め、大久保村森田字宮ノ先に鎮座。
明治41年(1908)、今の地に遷座。

さらに真直ぐ・・
地図10


(39)国道2号線に合流
です・・

此処を斜めに渡ります・・正面の青い看板に向けて・・

この斜めの道が西国街道です・・

すぐ左側の坂を少し登ると・・

(40)雲楽池(くもらいけ)

以下はNETの中で見つけた説明
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夏は池全体にハスの花・葉が 満開となり、又水鳥の親子が連なって水に浮かんで いることがあり心が癒されます。
「明石昔話」によれば、むかし雲楽池の水を落とし、池浚えをするという御触れが城下にありました。
こ の時、家老補佐の河村半右衛門は家来に『池浚えに は目の粗い網を持つよう』言いつけたそうです。
池 浚えでは、目の細かい網を持って集まった皆のもの は泥が詰まって重くて引き上げられないのに、
家来 の網は泥も詰まらず大きな魚を次々とすくい上げて いったそうです。
家来は先のことを見通していた家老につくづく感心したそうです。
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とのこと・・
昔から西国街道に面していたと思われる。

何を改修したのかは??



旧鑿井跡(きゅうさくせいあと)
鑿井(さくせい)とは、石油や地下水などの採取・探査のために井戸を掘ること。
さて・・??笑。

では・・元の道に戻って・・

真直ぐ・・

右に・・公園がある・・

(41)名のない公園



今回・・西国街道の看板を見つけたのは、
此処が最初で最後(爆)






公園の東側に・・
中谷公民館


さらに真直ぐ・・

次を右折です・・

右側には交番があります・・

(42)国道2号線中谷東交差点

此処を南に渡り、
東に進みます・・


(43)業務スーパー
が見えてきました・・

業務スーパーを過ぎて、東側の路地に入ります・・

道なりに歩きます・・


(44)到着
西国街道は此処を真っすぐ行くと・・

左側に三社神社が在ります。

この日は此処で撤退です、
此処から右折してJR西明石駅に・・


(45)JR西明石駅

写真は以前に撮ったものです・・
着いたのは午後1時半

此処から姫路駅まで行って、

お昼に「えきそば」を食べて・・神戸まで帰りました。

この東側は・・<2020.12.14.西明石駅〜朝霧駅

以上