Bogey-Don
西国街道探索
西明石駅〜朝霧駅A


<2020年12月14日(月)&15日(火)>

実は、13日(日)に西明石まで出かけて・・
歩きだしてすぐに道に迷って・・約二時間損失・・諦めて帰ってきました。
月曜日に出直したんですが、
今度はデジカメのバッテリーが予備も消耗し・・JR明石駅で中止。
結局は、14日(月)と15日(火)の二日がかりで走破しました。

チョット案内する場所が多すぎるので、
3ページに分けてアップしています。

この前のページは、
JR西明石駅〜明石城下町入口>編

<12月14日(月)>
JR神戸駅〜西明石駅まで移動、10時半に歩きだしました。
明石城下町の入口の明石川に着いたのは、
ほぼ12時ごろでした。

<明石城下町>編

大観橋


明石川上流

下流




播磨国明石城絵図

参考にしたホームページから頂きました。
当時の明石城は今の国道2号線を取り込んでしまっています。

@大観橋交差点

此処でチョット寄り道です・・右折し海の方向へ・・


地図4

西国街道沿いの場所は、赤の〇印・・寄り道は、青の〇印です。



A善楽寺(園珠院・戒光院)&無量光寺

善楽寺・園珠院





明石城下の町割りを宮本武蔵が担当した・・

善楽寺・戒光院

















東はりまの観光情報ホームページ↓
見に来てや! 東はりま (e-harima-tourism.jp)
で「善楽寺」を検索したら・・
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明石で一番古い寺とされ、円珠院には、宮本武蔵が作庭したといわれる枯山水の庭園があります。
善楽寺とは、戒光院・実相院・円珠院の総称で平安時代末期には七堂伽藍がそびえる大寺院でした。
円珠院:剣豪・宮本武蔵が作庭したといわれる枯山水の庭園があります。
戒光院:寺伝によると、大化年中(645から650年)法道仙人によって創建され、明石で一番古い寺と伝えられています。
光源氏ゆかりの地で、「明石入道・浜の館」があったとされ、明石入道の碑、「光源氏古跡明石浦の浜の松」の石碑があります。
平清盛の供養塔といわれる石造五輪塔もあります。

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とのこと・・

無量光寺




お寺の横の道は・・



東はりまの観光情報ホームページ↓
見に来てや! 東はりま (e-harima-tourism.jp)
で「無量光寺」を検索したら・・
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「源氏物語」の主人公光源氏が、月見をした寺といわれ源氏物語にゆかりの深いお寺です。
明石西国第2番観霊場となっている浄土宗本派の寺。
文学にゆかりの深い寺で、「源氏物語」の光源氏の月見寺として、また源氏屋敷として登場します。
山門を入ると左手に源氏稲荷がまつられており、大正時代には、作家の倉田百三、武者小路実篤らが訪れています。
山門の彫刻は、名工・左甚五郎作といわれれいます。山門を入って左手に源氏稲荷がまつられています。
光源氏が、無量光寺から明石の君の住む「岡辺の館」へ通った道が「蔦の細道」です。

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また@大観橋交差点に戻って・・東へ・・


B本町2丁目交差点

此処でまた寄り道、右折します・・



左側には神社が・・

C岩屋神社







此処のホームページ↓
明石鎮座 岩屋神社(明石戎宮本家)公式ホームページ (iwayajinjya.com)
によれば・・・その由緒は
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成務天皇13年(143年)6月15日勅命により、淡路島岩屋より御遷になり東播の古大社とし
 て古くより崇敬篤く、江戸時代に入ると明石城主の産土神として尊ばれ、例年藩主自らが参拝。
社 領12石5斗を賜わる。
 元文2年(1737年)には藩主松平直常の世継、松平直純が11歳になり「鎧始めの儀」の際に当社に参拝。
以後、世継の鎧始めの儀の際には当社への参拝が慣例となる。
社殿は、明石海峡をへて淡路島に對し、社の東の明石港には淡路との連絡船が発着する。
 当社の北方約300メートルを西国街道が東西に通ずる。
 当社付近は古くから大明石村と称し、(慶長播磨國繪圖)市名の起源となった。

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とのこと・・「西国街道」が述べられている♪

また元の道に戻ります・・東へ・・





商店街です、左を見ると・・「魚の棚」が見えています。

D広い交差点
に出ました・・

右に行くと明石港です・・

交差点の向こう側に石碑が・・
実はこの時点で、デジカメのバッテリーが尽きた・・予備も・・
この日は、ここで撤退です。午後2時ごろ・・
この交差点を左折して、JR明石駅に向かいます。

EJR明石駅

この日は、JRで帰りました。

<12月15日(火)>
朝から出かけてきました・・10時ごろです。
まずは・・明石駅の北側に・・


お堀です・・

F史跡 明石城跡







明石城の公式ホームページ↓
明石城 公式ウェブサイト (akashijo.jp)
によれば・・
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明石城は、今から400年前の1619年(元和5年)に、初代明石藩主小笠原忠政(後の忠真)が外様大名の多い西国の備えとして、
徳川幕府2代将軍秀忠から命じられ築城されました。
本丸跡に建つ巽櫓・坤櫓は日本に12基しか現存していない三重櫓のうちのふたつで、国の重要文化財に指定されています。

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とのこと・・

後日ですが、
明石城跡を散歩したので・・
2022年2月2日、明石城跡散歩
ご参考に・・


さて、それでは西国街道に行きましょう・・
前日に撤退した、
D広い交差点

石碑には・・

西国街道の道しるべですね〜


ここで、チョット海の方に寄り道です・・お寺があるので・・

交差点を渡って


G光明寺 (通称:浜光明寺)

山門はボロイ・・





あら・・写真がボケてる?







なんとなく・・壊れそうなお寺・・

一般社団法人 明石観光協会 (yokoso-akashi.jp)
の「観る、お寺 神社」に載っている・・
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元和5(1619)年に明石城築城時に三木より現在の地に移されました。
藤原国次によって享保14(1729)年に造られた梵鐘はこの時代に鋳造された和鐘は全国的に少なく、市指定文化財になっています。
明治天皇が宿泊した「明治天皇行在所跡」も残されています。

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とのこと・・


すぐ北側の道は・・観光道路??
西国街道は・・もひとつ北側です・・

交差点を渡って・・


H一筋目を右折・・



右側にお寺が・・

回り込みます・・
I光明寺

これも寂れている・・先に見た「光明寺」との関係は??
情報なし・・


東へ・・



交差点の向こうに・・

おや・・石碑が

J柿本神社道標

人丸山への街道筋のようです・・

西国街道は
まだ真っすぐです・・







交番があります・・大蔵交番

その横に・・

K日本標準移子午線通過地の標柱



その横に・・・

街道の道しるべが・・

この辺りは、昔の宿場町だったようです。
此処で左折・・


L最初の筋

此処を右折したら西国街道です・・が、

柿本神社のある人丸山に寄り道するために・・とりあえず真っすぐ行きます・・

国道2号線に出ました・・

M人丸前交差点

交差点の向こう側・・に道しるべがあります・・

西側から歩いてきたら見えるように立っています。
左人丸山

此処を真直ぐ進みます・・・・

山陽電車の人丸前駅

山陽電車とJRの高架を潜って・・

チョット行くと・・左側には・・

N長寿院



一般社団法人 明石観光協会 (yokoso-akashi.jp)
の「観る、お寺 神社」に載っている・・
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明石藩主である松平家の菩提寺で、
境内にある「旧明石藩主松平家廟所」には8代藩主松平直明から斉宜までの歴代藩主とその家族の墓があります。
墓域中央には、第16代藩主松平慶憲が建てたとされる竜の彫刻が施された豪奢な御霊屋があります。

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とのこと・・


隣が

O明石市立天文科学館

実はトイレに行きたくなって、
中に入りました、入場料金は700円・・65歳以上は半額でした。


幼稚園のお友達がきていた・・♪

展望室からの眺め

ガラスの一部が緑色・・



日本標準時の子午線が通っている・・


北側に神社と

お寺が見える

途中の階から北側に出られるようです・・出ました・・




芭蕉の旅の西の端っこらしい・・




いろんなものが並べてある・・笑

P 月照寺・柿本神社
月照寺











此処のホームページ↓
人麿山 月照寺 (hitomarusan-gesshoji.jp)
によれば・・
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今を去る1200年ほどの昔、弘仁2年(西暦811年)弘法大師 空海が明石の岡、赤松山(現在の明石城祉)に湖南山 餘鵜楊柳寺を創建した。
仁和3年(西暦887年)楊柳寺覚証和尚は、大和の柿本山 広安寺より人麿念持仏であった船乗十一面観世音を勧請して奥の院に奉祀し、寺号を月照寺と改めた。
天正2年(西暦1574年)真言宗から曹洞宗に改宗。元和7年(西暦1621年)明石築城によって境内が城地となり、
翌8年(西暦1622年)人丸社、月照寺の新殿が現在地に竣工した。
延享元年(西暦1744年)山号を人麿山と改め、明治4年(西暦1871年)神仏分離令により人丸社は月照寺より分離して柿本神社となった。

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とのこと・・

柿本神社















此処のホームページ↓
柿本神社 - 明石市 (kakinomoto-jinja.or.jp)
によれば・・
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当社御祭神柿本人麿公は、飛鳥時代宮廷に仕えた歌人で、万葉集、古今集など合わせて400首以上の歌が載せられております。
元和六年(1620年)当時、明石城主であった小笠原忠政公が人麿公を歌聖として大変崇敬され、縁深いこの地にお祀り致しました。
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とのこと・・

凄い階段・・

下から見れば・・


また元の道、国道2号線に戻ります・・
M人丸前交差点

もとの西国街道に・・まっすぐ南に行きます・・

おや・・右に何かある・・








Q忠度塚





NETで調べたら・・以下の記述発見・・
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平安時代の平家一門の武将、平忠盛の六男で平清盛の弟の薩摩守平忠度が、一の谷の戦いに敗れ、
両馬川(明石市天文町1丁目)で、六弥太に討たれその亡骸が眠ると伝えられる場所。
鎌倉時代に近隣の人々により五輪塔が建てられ供養されていたが後に荒廃。
江戸時代に明石藩主松平山城守忠国が延宝年間に修復。
一ノ谷合戦で敗れた平忠度の右腕を祀る「腕塚神社」は、忠度塚から徒歩5分の場所にある。
神戸市長田区にも腕塚と胴塚(首塚)がある。

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とのこと・・

元の道に戻ります・・

L西国街道 に戻ってきました。


旧大蔵谷宿場〜JR朝霧駅>編