Bogey-Don
西国街道探索
西天神社〜兵庫県東端


なんとなく、前から考えていたこと「西国街道」を歩きます。
昔の名残を感じられる物を探しながら・・・

参考にしたのはNETで発見した
「西国街道道中の記録」
です。↓
http://k-yagumo.sakura.ne.jp/web/saigoku.html

この探索記録の西側は・・
2021.5.11.門戸厄神駅〜西天神社
東側は・・大阪府、
一旦、今回の西国巡りは此処で終わりとします。

<2021年6月6日(日)>

この日は
午前7時過ぎに家を出て、JR伊丹駅には8時過ぎに着きました。

JR伊丹駅西側

バスの出発まで時間があるので・・
駅前を探索

有岡城跡







有岡城跡は国指定文化財であり、
伊丹市のホームページに詳しい記載があります。

さて、バスに・・

8時42分発・・

バス停・アルビス寺本

171号線です・・

陸橋に上がったら・・
@西天神社
が見えました・・

さて・・
西国街道は、此処から171号線を外れて、
南側の住宅街に入ります。

A西国街道道標・西天神社前






地図1






B昆陽宿・案内板









この敷地は、住友電気工業の土地らしい。

さらに東に・・



左側に・・

C昆陽村、西の庚申(こうしん)さん

伊丹市のホームページ(その他の文化財)より抜粋
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西国街道の宿場町・昆陽村の西はずれにまつられています。
庚申は中国の道教に由来する信仰で,災いや疫病を防ぐと考えられて,江戸時代の村境に置かれました。
旅人の安全を守る道祖神(どうそじん)などと同一視され,「青面金剛(しょうめんこんごう)」とも同類です。
旧暦で60日ごとに巡ってくる庚申(かのえさる)の日に眠ると,
人の体内にいる虫がその人の悪事を天帝に告げに行くと信じられており,
その日は庚申碑の前で夜明かしするという風習もありました。
昆陽村にはこの西の庚申のほか,東の庚申(市立稲野小学校東側の地蔵堂内)と北の庚申(東天神社本殿の背後)がありました。
南側にもあったかも知れませんね。

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児童公園




公園の中の看板は・・
昆陽野
の案内が・・

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昆陽・昆陽野
 昆陽野・猪名野の地は猪名川と武庫川に挟まれた、名称の地として、万葉にも歌われた。
天正三年、行基菩薩によって昆陽の開発が行われ、昆陽施院、昆陽上池、同下池、長江池、
中布施屋池、院前池の昆陽野五池(総称して「昆陽池」という)、昆陽上池溝、同下池溝、
昆陽布施屋を創造された。現在昆陽上池、中布施屋池の古名を持つ、昆陽池と端ケ池とが
遺る。昆陽野は東は伊丹坂、西は武庫川、北は長尾山周辺、南は笠池富松に及ぶ広大な地
である。
 平安時代昆陽野、昆陽池は多くの詩歌に天下の名勝として謳われた。藤原道長が昆陽寺
に参詣、主膳池畔の猿ケ山の別邸で供の長算は、「鴎こそ夜がれにけらし猪名野なる こ
やの池水うは氷せり」と詠む(『後拾遺和歌集』)。この昆陽池は主膳池(院前池)を指
し、古代昆陽寺はこの池の前にあった。この別荘を嫡子頼通が継ぐ。能因法師はこの昆陽
池亭に住み、「昆陽の入道」と呼ばれた。ここで「昆陽池亭五首」の和歌を詠み、白楽天
と詩才を競う。我が古郷の誇る優れた歌人である。天慶八年七月昆陽寺に志多羅神の輿の
来訪、又『古今物語』に鐘の盗難の話が載る。
 治承四年平清盛は福原遷都を断行、しかし狭隘の故に昆陽野が遷都の候補に上がる。
 昆陽の地名については、「中臣氏」の祖天児屋根命の「児屋」から、行基菩薩草創の昆
陽寺から、又単に小屋が多かったからとの諸説がある。
 鎌倉時代、昆陽荘は東西に分かれ、西方は高野山安養院領、東方は槙尾山平等心院(西
明寺)の所領、後建武新政の時、荘園の所務は一時楠木正成の手に移る、中世も歌の名所
として名高い。藤原定家は生涯四度の有馬湯治の、最後の建暦二年「過昆陽池入武庫山」
と題し、「新雨初晴池水満・・」に始まる詩を詠む。昆陽寺は鎌倉時代末の嘉暦元年伊丹廃
寺の地から、現在地に移建、西国街道の道筋を変え、参道と六塔頭を設け寺観を荘厳、水
利支配権と共に寺本の地の法厳寺を佐藤氏が自地に移した。大永二年伊丹元親の要請で現
在地の昆陽口町に移る。後醍醐天皇隠岐敗流の時、昆陽寺に泊まり「命あれば こやの軒端の
月も見つ 又いかならん行末の空」と身のはかなさを詠まれた(『増鏡』)
 室町、戦国時代も昆陽野周辺は戦乱の舞台となる。室町時代になる『義経記』の書写山
炎上の条の戒円を召捕った昆陽野太郎は豪族武家の佐藤総領家である。この時代、狂言『
茶壷』は昆陽野の宿の市の盛況を伝える。村重攻めの昆陽野古城は、大鹿猿ケ山城である。
 江戸時代始めの天領、貞亨三年武蔵国忍藩領、大政六年再び天領になる。東町、中町、大
工町、市場町、辻ノ町、佐藤町、小井ノ内七町からなる。村高千三百九十四石余(慶長
十年摂津国絵図)、家数百七十四、人数九百十三、東天神社は伊邪那岐、伊邪那美の二柱
を祭る。行基菩薩猪名野開発の祈願所とした、との伝承を持つ、西に西天神社あり。新田中
野の開拓、昆陽下池が農地に換わったのは、中世末に昆陽井が掘られたからである、支配管
理に紆余曲折があり、現在に至る。文芸では名勝昆陽池は鬼貫にも詠まれ、本居太平の『
有馬日記』に、夏目甕麿の『七月の記』等と話題は尽きない。延亨五年当地の俳人占屑等
等の俳書『昆陽地集』が昆陽寺に奉納された。
 昆陽は明治二十二年以来現在迄の大字名、稲野村の役場が市場に置かれた、明治二十四
年猪名野小学校を稲野小学校と改称、同時に南野の習成、新田中野の致道の二小学校を併
合、昭和四年西国街道に阪国バスが走る、同十四年住友電工が進出し、十六年より操業、
又昆陽池は三十五年に住友系会社に三分の一を売却、残る自然公園の素晴らしい景観に行

基菩薩の遺徳を偲び、永劫の繁栄を祈念して、平成十年九月吉日昆陽自治会建てる。

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とある・・
読めない、書けない漢字が多々あった・・爆。

この辺りには、古い風格のある家が・・


さらに東に・・



地図によれば此処を左折したらお寺がある・・
チョット道を左に外れて・・

D中宮寺

あまり古そうではなかった・・

東へ・・



右側に公園・・

長瀬児童遊園地

公園の角には・・

長勢橋の碑


E西国街道道標・ 長勢橋



伊丹市のホームページ(その他の文化財)より抜粋
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江戸時代の終わりの元治元年(1864年)に起きた蛤御門の変(はまぐりごもんのへん。クーデター)の際,
敗走した長州勢がここにあった橋で踏みとどまって戦ったといわれています。
しかし,碑の右側面には「慶応四辰正月三日」とあり,
これは慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いがおこなわれた日です。
もとは植え込み北側の道沿いにありました。
公園北西側,四辻の北西側には川端本陣がありました。

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F昆陽4丁目交差点


地図2





古そうな建物・・
通り過ぎて振り返ると・・

良い雰囲気ですね〜

左側に・・


G稲野小学校





伊丹市のホームページ(その他の文化財)より抜粋
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元は現在地から約140メートル西の札場の辻(ふだばのつじ),
つまり西国街道と有馬道との交差点にあった道標です。
東西南北の四面に
それぞれ「すぐ 西之宮」「すぐ 京都」「すぐ 中山・小濱(こはま)」「すぐ 尼ヶ崎・大坂」と刻まれています。
「すぐ」とは「まっすぐ行くと・・・へ至る」という意味です。
江戸時代の終わり頃に建てられたと考えられています。
なお,札場の辻の側溝沿いには大正時代に建てられた「稲野村道路元標(げんぴょう)」が残されています。
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東へ


H伊丹警察署前交差点



この道の左側は、伊丹市役所など官庁街です。

I次の交差点

此処を通り過ぎると、千僧2丁目に入ります。

地図3


普通の住宅の前に・・




さらに進むと・・


J天神社









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記念碑
水鳥の羽音高く 今池は消ゆ

千僧今池は遠く千二百年の昔に僧行基の構築したあまた
の池の一つである この池によって地区農家の人々は用水
溜池として祖先の遺産を継承し護持し来ったいま時
代の変遷によってこの池を伊丹市に譲渡割愛し市発
展の原動たる行政庁建設用地となりこの地区発展
にも寄興することとなった 私たち千僧地区農家団
体の土地改良区は祖先の遺徳顕彰と報恩の行持の
一滴として千僧地区内の社寺公民館等に遺徳賛仰
の誠を捧げるため多額の寄付金を投出し永くの
ちの世まで伝えんとす

一、譲渡物件と価格 金四億五千万円也 千僧地区内(壱万壱千坪)
二、譲渡先と用途 伊丹市 伊丹市行政庁等建設用地
三、一部譲渡金の寄付概要
金六千五百万円也 千僧公民館(敷地本館管理人室)
金参千万円也 天神社(本殿境内建築物)
金弐千五百万円也 安楽院(本堂客殿修理、庫裡)
記金弐千五百万円也 西善寺(本堂仏具、庫裡)

昭和四十四年参月吉日
千僧土地改良区

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と刻まれている。

さらに東に・・




地蔵堂


K十字路

さて、地図によると
この十字路を左に行くとお寺が在るらしい・・
西国街道から外れて左折です・・


西善寺


次のお寺の壁には・・

大きな地蔵堂




L安楽院

古そうな・・










地図によると・・
チョット西に戻ったら池が在るらしいので・・行ってみます
野次馬(笑)

M千僧今池

なんだか工事中??


西国街道に
引き返します・・



左側は古そうな・・
右には
N千僧公民館




さらに東に・・


O県道332との交差点

左側は自衛隊の千僧駐屯地


地図4


真っすぐ・・渡って


P西国街道道標・ 大鹿桜ケ丘




次の三叉路

直進です・・

前方の左側に・・

Q大鹿交流センター





伊丹市のホームページ(その他の文化財)より抜粋
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西国街道と有馬道との交差点に立つ道標です。
伊丹の町から北上してきた有馬道は,このところで西国街道と交差します。
道標の各面には次のように刻まれています。
〈東面〉すぐ 西宮
〈南面〉すぐ 中山 ありま
〈西面〉すぐ 京
〈北面〉すぐ 大坂
「すぐ」とは,「すぐ着く」ということではなく,「まっすぐ行く・・・へ至る」という意味です。

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さらに進むと・・
駐車場の横に・・
R旧西国街道の看板








S次の交差点

地図によると、
お寺と神社が近くにある・・ってことで・・
また西国街道から外れます・・

西へ

少し戻って、右折

左側に・・

何だろう??
石碑と地蔵堂





伊丹市のホームページ(その他の文化財)より抜粋
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大鹿の村人が日照りで困っていたとき,
大覚大僧正に頼んで雨乞いをおこなうと,たちまち大雨が降りました。
そこで村人たちはみな法華宗(日蓮宗)に改宗したと伝えられます。
その伝説にちなんだ遺跡です。

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振り返えると・・
(21)妙宣寺


 





さらに進むと・・
(22)西皇大神社

への道が・・右折です











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茶碗樋の由来

端ケ池の取り水については昔より水かみに位置する
萩野、鴻池の両村と争いが絶えなかった大鹿土地
改良区に今も保存してゐる古文書によると 宝
厂六年(一七五六年)に始まった水争いは特にはげ
しく あしかけ四ケ年の長きにおよんだこの収拾
に苦心した当村の庄屋や水利関係者は東奔西
走のすえ新田中野村および千僧村と協議して大
阪御番所に訴えたところその指示により三反
田村庄屋らの仲裁で宝厂九年三月萩野、鴻池村
との間に和解が成立した ここに駒池東開西開
の接点に新たに樋を設けその茶わん大の穴
より漏れる水のほかはすべて端ケ池に取り入れら
れることになった その後二百十余年茶わん樋の恩恵
はきわめて大かった
しかし近年当地のめざましい発展に伴い端
ケ池は猪名川の流水を取り入れて農業用水
のほかに伊丹市上水の貯水池を兼ねることと
なり一方萩野地区もまた区画整理を実施し
たので惜しまれつつも茶わん樋はその使命を
終わることになった
依ってここに二世紀にわたり用水の確保に
苦労した先祖の心情を偲ひあわせてその功
労に感謝するためこの社の境内に茶わん樋
の原形を移設して永く後世その史実を伝え
るものである
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と刻まれている

さて・・西国街道に戻ります・・先ほどの
S交差点
を直進


地図5



この道は、入り組んでいて・・
三叉路が多い。


(23)十字路

直進

道が下り坂に・・

おや・・

またまた、寄り道・・右折です

(24)北向地蔵尊





次を左折・・



駐車場付近に・・看板がある・・



駐車場に・・
八幡神社跡地碑

これは違うね・・
その横の道でした。


(25)伝 和泉式部の墓






また・・西国街道に戻ります・・




(26)西国街道道標・伊丹坂




少し進むと・・


(27)北園1丁目交差点

直進です・・

左側に・・

(28)辻の碑(つじのいしぶみ)




辻の碑

伊丹市のホームページ(市指定文化財)より抜粋
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昭和40年(1965年)に市の史跡に指定された辻の碑は,
西国街道と多田街道とが交叉するいわゆる「辻」に建っています。
高さ92センチ,幅76センチの自然石で,鋭角を上方に向けて建てられています。
平成9年末に碑を納める覆屋が新調され,石張りの広場が整備されました。
碑の表面には銘文があって,多くの文字が刻まれていたようですが,長年の風雨にさらされて摩滅し,
いまでは中央上方に刻まれた一行「従東寺拾里(とうじより10里)」のほかは読み取れません。

しかし,寛政10年(1798年)に刊行された『摂津名所図会(ずえ)』によると,その下には,
「距関戸(せきとにいたること)七里,距須磨(すまにいたること)七里,距天王(てんのうにいたること)七里,
距大小路(おおしょうじにいたること)七里」ときざまれていたそうです。
関戸・須磨・天王・大小路は下に記すように,摂津国と四方の国との国境(くにざかい)に位置する地名です。
つまり,ここは京都の東寺(教王護国寺)から約40キロで,かつ,四方の国境からそれぞれ約28キロの,
摂津国の中心ということになります。
だれが,いつ,何のために,建てたかは,今のところわかりません。
<碑の銘文について>
関戸(山城国との国境)京都府大山崎町の関戸院のこと
須磨(播磨国との国境)神戸市須磨のこと
天王(丹波国との国境)三田市母子(もうし)の天王嶺のこと
 大小路(和泉国との国境)堺市大小路のこと
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多田道道標

伊丹市のホームページ(その他の文化財)より抜粋
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西国街道から多田神社(川西市)に至る道と距離を示す道標です。
市指定文化財「辻の碑(いしぶみ)」の南側,西国街道と多田道とが交わる四つ辻にあり,
「従是(これより)多田御社江(へ)一里半」と刻まれています。
ここから多田神社(川西市)まで1里半(約6キロ)あるという意味です。
元禄14年(1701年)のもので,元は四辻の北西角に立っていました。
江戸時代のガイドブック『摂津名所図会(ずえ)』にも,辻の碑の手前にこの道標が描かれています。
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水車小屋が在るらしい・・行ってみます


(29)多田街道水車小屋

さて・・西国街道に戻って・・

(30)駄六川・坂口橋





上流

下流


地図6


さらに進む・・


上空には・・

大阪空港発の旅客機





(31)福知山線の踏切












(32)西国街道道標・猪名川西岸




道路を超えて、獣道を登ると・・


地図7


(33)猪名川右岸堤防
猪名川が見えた・・

上流

西国街道はこの辺りを徒歩で渡ったようです。

下流

上流の橋の方に歩きます。

途中、車道の方に何かが??

獣道を降りてみます・・


雑多な石碑が並んでいる・・
後で調べたら
(34)芭蕉翁あゆみの地の碑


芭蕉翁あゆみの地の碑

伊丹市のホームページ(その他の文化財)より抜粋
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俳人の松尾芭蕉(まつおばしょう)は元禄元年(1688年),須磨・明石などをめぐったあと,
西国街道を通り猪名川を越えて京へ帰りました。そのことを記念した碑です。

俳人の松尾芭蕉(まつおばしょう)は元禄元年(1688年)4月,大坂を出て尼崎から船で兵庫に着き,
須磨・明石や布引の滝・乙女塚(神戸市)などをめぐったあと,
勝尾寺(箕面市)・能因塚(高槻市)・山崎宗鑑屋敷(京都府大山崎町)を経て京へ着きました。
このことは『笈の小文(おいのこぶみ)』に記されていますが,
このコースはいわゆる西国街道で,伊丹市域の昆陽・千僧・大鹿などを通り,猪名川を越えていったのです。
そのことを記念し,「芭蕉翁あゆみの地」の碑が建てられています。

そのかたわらに建つ大きな碑には「新建石橋碑(しんけんいしばしひ)」の題があり,
ここに石橋を架けて旅人の苦しみを除きたいとの願文が書かれていますが,なぜか年号の部分は抹消されています。
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新建石橋碑
 



奥の看板は・・


戻って・・


対岸

赤い矢印の当りが、
向こう側の西国街道かな??



(35)軍行橋西詰




(36)軍行橋中央にて

下流

軍行橋という名前の由来は、
1911年(明治44年)に猪名川をはさんで陸軍大演習が開かれた際、演習用に架けられた橋だからだとのこと。
それまでは、此処に橋は無かった・・

地図8






(37)軍行橋東詰下流側
もう一本の川を渡る・・




(38)伊丹市都市景観形成建築物












(39)淨源寺












此処から南側にまわりこんで・・
都市景観形成建築物の表の姿を観よう・・







西国街道は、多分この当りの南側を通っていたらしい、
単に私の予測だが。

一応、171号線を・・兵庫県境まで走破しよう・・







左の方向、
大阪府との境界が見えた・・

振り返ると・・

(40)大阪府池田市へ

こちらにも・・
さらに進んで、向こう側にわたる・・


(41)トンネル
を潜って・・


向こう側の陸橋
(42)新開橋

を渡る・・
さて兵庫県に引き返します。

(43)県境を通り過ぎて

振り返って・・








(44)軍行橋東詰上流側




猪名川上流


(45)河川敷の運動広場


(46)JR北伊丹駅




とりあえず、西国街道巡りの東側は、
一旦ここで終了とします。

以上