Bogey-Don
西国街道探索
姫路駅〜京口駅


なんとなく、前から考えていたこと「西国街道」を歩きます。
昔の名残を感じられる物を探しながら・・・

参考にしたのはNETで発見した
「西国街道道中の記録」
です。↓
http://k-yagumo.sakura.ne.jp/web/saigoku.html

この西側は・・今のところまだ探索していません。
この東側は・・<2023.8.13.京口駅〜御着駅

<2023年8月11日(金・祭)>

この日は良い天気
午前5時に家を出て、JR神戸駅5時40分鈍行に乗車・・
JR姫路駅には7時過ぎに着きました。

@JR姫路駅

とりあえず・・

「えきそば」で朝食♪

7時10分ごろ・・

出発です・・

とりあえず、姫路城に向かって北上・・


A国道2号線、大手前交差点

向こう側に石垣が見えます・・

左側には、何か看板がある・・

渡ります・・

この石垣沿いの道を西に進みます・・

地図1その1



次にまた城門らしき所が・・
道路の左側にわたって・・撮影

B中の門跡




さらに西へ・・


国道二号線建設ノ碑



この辺の国道2号線は、
姫路城の中堀を埋め立てて出来ていると・・・
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「国道2号建設碑」で検索↓
姫路城中堀南部は、大正元年から2年にかけて、39連隊南側から総社門まで、
大正14年総社門から内京口門までを埋め立て、宅地、道路とした。
昭和7年埋門から39連隊南側までを埋め立て、国道を改修し、昭和8年国道2号が開通した。

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さらに西へ・・




次の城門・・道を渡って撮影

CG門跡(くまたかもんあと)



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「G門」で検索↓
本町と坂元町との間にあり、内外両門とも南向きになっていた。
外門は掖門附高麗門、内門は掖門附櫓門、外門を入ったところに番所があった。

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さらに西へ・・

今度は急に道幅が狭くなった・・

道路の反対側から撮影・・
D埋門跡(うずみもんあと)



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「埋門」で検索↓
中堀の南西隅の隅櫓の傍らにあった。
普通の往来は主に福中町筋に出て備前門から出入りしていた。
枡形の石垣の間に内外両門があった。内外両門とも南向きで、外門は高麗門、内門は櫓門掖門附。
隅櫓は門名により埋門櫓といった。

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さらに西へ・・
白鷺橋(はくろはし)

国道2号線の橋を渡ります・・

川は船場川・・

上流

下流

渡ったらすぐに・・
E白鷺橋交差点(はくろはしこうさてん)

この北側から来ている道が西国街道です。
(注)後で知ったのですが、GoogleMapによると、
西国街道は、もう一筋西側を通っていました・・
地図1:(A)で示します。
此処で左折して、南に進みます・・

前方の左側に橋があります・・

F西国橋



・・・
西国橋は「西国街道」の一躍を担い、市街地の中心的な場所として・・
と書かれている。
渡ります・・
(注)後で知ったのですが、GoogleMapによると、
西国街道は、もう一筋南側の白鷺橋南交差点の橋を渡ってました。
地図1:(B)で示します。
いずれにしても西国街道は姫路城下町に入ったら、
二筋の道になっていたと思われます。


渡って振り向くと・・
稲荷神社通称
姫城東稲荷大明神

稲荷神社|兵庫県神社庁 神社検索 (hyogo-jinjacho.com)
主祭神は姫城東稲荷大神
創立年代は、徳川末期・・

さて、東に進みます・・が・・

この辺りから西国街道は、こも真っすぐの道と、
もう一筋右側の道と二本になっているようです・・
賑やかそうなのは、南側のようなので・・
此処で右折・・


G南側の道(福中町)に出ました・・

東に進みます・・

H西二階町に入ります・・

この辺りは、西国街道の宿や本陣が在ったところと思われます。
西二階町ホーム - 西二階町商店街|兵庫県姫路市 (nishinikaimachi.com)
なかなか面白い↑
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その昔姫路が城下町であったことから、宿・商業などは平屋建てであった。
しかし西二階町は、長壁神社と播磨国総社、西の船場御坊を繋ぐ参道として発展していたため、
当時としては珍しく営業上の「二階建て」家屋が多く構えられた。このことが町名の由来と云われている。

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脇本陣三木家跡



この地図だと大きかったらしいね〜


更にちょっと先に・・

更にチョット進むと右の角には・・

脇本陣那波家跡



こっちも広いね〜




I此処で左折

曲がると「かもめ屋」があります・・

中の門筋です・・

北に進むと・・

一筋北にある西国街道に出ます・・
この辺りは街道筋と本陣などがある道が平行に走っていたと思われます。

J札の辻に出ました・・
左側には
お夏の生家跡



井原西鶴の物語「お夏清十郎」・・・
お夏の生家跡と言われている・・・
右側には・・
札の辻



お江戸時代に高札場があって、
札の辻となった。

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「札の辻」で検索↓
江戸時代、法度・人相書きなどの触書を記した高札場が、
中門筋と西国道の交差する、城下町で最も多くの人々が往来する此の辻の南西角に建てられていた。
平成11年、城南連合自治会により文化財サインがこの辻に設置された。
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此処で右折・・東に進みます・・

この交差点の左側には・・

K西国街道の看板があります・・




地図1その2


交差点を渡ってさらに東へ

まっすぐ進むと・・

駐車場の建物に突き当たった
L三叉路に出ます

西国街道から外れますが、そこを左折・・
北に進みます


M国道2号線、姫路市民会館前交差点に出ます・・

着いたのは8時35分・・
交差点を渡ります・・
左側に・・

N総社門跡

が残されています・・




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「総社門」で検索↓
総社西門筋の虎の口にあったのでこの名がある。
御番所心得の1つに、御門は暮れ六つ(午後6時)にしめ、くくり戸あけおき、五つ(午後8時)くぐりともにしめ、
明六打候はば、ただちに番所の戸を開くべく候とある。
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さて・・交差点を渡って西国街道に戻ります・・

南へ・・


N二階町交差点

西国街道は此処を左折です・・

東へ・・




O次の三叉路

を左折します・・


P国道2号線、坂田町交差点

真っすぐ北上・・


Q園證寺




次の交差点を真っすぐ進みます・・


地図2


R三叉路が見えます・・

この三叉路を、

右に曲がるのが西国街道ですが・・
左側に姫路城のお堀が見えるので・・

行って見ます・・


S東部中濠



北に進みます・・

前方に見えるのは、敬明女子学院の建物・・

石垣がありますね〜

(21)内京口門跡



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「内京口門」で検索↓
東南方の虎の口で外京口門とともに京都方面の出入口だったので、この名あり。
堀は食い違いになり、その間に内外両門を構えて枡形とした、両門とも南向きになり、
外門は掖門附高麗門、内門は掖門附櫓門、外門の内に番所があった。
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さて・・西国街道に戻ります・・

東に進んで・・左を見ると、

凄い・・お堀ですね〜

次の
(22)交差点を右折

南に・・


(23)西国街道に合流・・

此処を左折・・東へ・・


あとは真っすぐ東へ進みます・・

左側に

姫路市立東光中学校

もう少し進むと・・校舎の外側に看板があります。
(24)外京口門跡



「京都から下関に至る山陽道が通っていた」と書かれている・・
山陽道=西国街道
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「外京口門」で検索↓
外曲輪の5つの門の一つ。
京都への道筋にあるので「京口」となり、中曲輪の内京口門に対し「外」と付けた。
鉤型特殊な桝形をした門。
明治に撤去され跡地には東光中学校が建ち、体育館地下には石垣の一部が保存されている。

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さらに東へ・・

JR播但線が見えました・・

目の前は、
(25)京口公園

西国街道は此処で右折し・・

広い道に出ますが・・
そろそろ疲労が溜まってきたので・・この日は此処で撤退・・
JR京口駅

9時35分でした・・

歩きだしてから約2時間半・・
家に帰り着いたのは、11時半ごろでした。

この東側は・・<2023.8.13.京口駅〜御着駅

以上