Bogey-Don
西国街道探索
京口駅〜御着駅


なんとなく、前から考えていたこと「西国街道」を歩きます。
昔の名残を感じられる物を探しながら・・・

参考にしたのはNETで発見した
「西国街道道中の記録」
です。↓
http://k-yagumo.sakura.ne.jp/web/saigoku.html

この西側は・・<2023.8.11.姫路駅〜京口駅
この東側は・・<2023.7.26.御着、播磨風土記の里

<2023年8月13日(日)>

この日も良い天気
午前5時に家を出て、JR神戸駅5時40分鈍行に乗車・・
JR姫路駅で播但線に乗換・・

JR京口駅に着いたのは・・

7時10分ごろ・・


地図1

地図上の番号は、
この西側の<2023.8.11.姫路駅〜京口駅>と連番になってます。

(25)京口公園の西側の道・・

この道を南に・・

広い道に出ます・・

JR播但線の下を潜って・・

(26)京口駅南交差点

広い道路の日陰になってる北側を歩きます・・
京口台交差点


次の交差点の手前に

城南線との石碑が・・

姫路市の都市計画道路らしい・・

(27)神和町交差点

この先で西国街道は南側の細い道に入るので
此処で交差点を南に渡ります。

渡ったら・・東に・・

右に入る道が見えてきました・・

右折します・・

次の
(28)三叉路

此処で左折・・

東へ・・
国道312号線

此処を渡って、東へ・・





左側に・・

(29)地蔵院



中には入れなかった・・

塀の上から撮影・・
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姫路市Webマップ − トップページ − (sonicweb-asp.jp)
「地蔵院」で検索↓
1656年創建。地蔵の立姿が刻まれている石棺仏は、長持型石棺を利用している(室町期)。
こうした例は少なく、長側石を用いたものは、市内唯一。
仁寿山校の白鹿堂碑が移されているが、故あって碑文は換えられている。

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さらに進む・・

道は少しづつ南向きに・・

突き当たって・・

右折

(30)国道2号線、市川橋西詰交差点

此処で合流します・・

国道2号線を東に・・

地図2その1


(31)市川橋

に出ました・・

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「市川橋」で検索↓
明治8年初めて橋が架けられた。幅が狭く欄干も申し訳程度であったが、当時、県下一の長さ(490m)だった。
明治22年の洪水で一部が流失。明治41年に鉄橋が架けられ、昭和16年に今の橋が完成するまで使われた。
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上流側を渡ります・・
上流

反対側にまわって・・
下流


市川橋東詰交差点

此処のチョット東・・

(32)一本松交差点

西国街道は此処で右折して南に進みますが・・

左折して北にある神社に向かいます・・

しばらく進むと・・

緑の木々が・・此処を右折・・

(33)五霊天神社(ごりょうてんじんじゃ)





五霊天神社|兵庫県神社庁 神社検索 (hyogo-jinjacho.com)
このHPの中に以下のような記述がありました。
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旧山陽道は明治初年は橋がなく、対岸の市之郷まで渡しで渡っていたのである。
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ってことは、
明治初年までは西国街道がこの神社の近くを通っていたかも?

鳥居の手前に道標がある・・


  
「左 丹波道」 「右 大阪 神戸」
と読める・・
と言うことは、明治初期の西国街道は、
この神社の西側で渡し舟を降りて、此処から南に向かっていたと思われる。
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後で調べたのだが・・
姫路市Webマップ − トップページ − (sonicweb-asp.jp)
で「市川渡跡」を発見↓
渡し場は今の市川橋付近にあって、明治の初めまで渡船があった。
「小川村明細帳」によると、常渡し守が12人いたとある。

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地図によると・・やはり西国街道は此処を通っていた。

さて・・
(32)一本松交差点に戻ります

此処を渡って、南に・・



しばらく進むと・・右側に・・

(33)一本松第二緑地




真っすぐ南に・・


(34)JR神戸線を潜って

次は山陽新幹線を潜って

向こう側に出ました・・

此処で一旦、市川を見ようと・・川の方に・・


(35)東阿保緑地

広すぎて川は見えない・・

地図2その2


西国街道は、この右側の道です

この道の右側には、

(36)石碑二基が並んでます

右側の白い色の家の右側には・・

溺死菩提碑





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「 溺死菩提碑」で検索↓
寛延2年(1749)姫路城下は、未曾有の大出水に襲われ被害は三町五反あまりに及んだ。
城下の溺死者に対して後七回忌の宝暦5年(1755)にその菩提のため山脇に立てられた碑である。
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二軒通り過ぎてから、

振り返ったら・・石段が・・

日蓮宗題目塔




さらに進みます・・



次の家が途切れたところには・・

また石段が・・

行って見たけど・・行き止まり・・外れでした(笑)
さらに進みます・・

前方に鉄骨の櫓が・・下の方に石碑も・・
行って見ると・・

(37)鉄骨櫓下
を登ると・・

西川翁頌徳碑

さらに登ると

日本廻国塔








さて・・元の道に戻ります・・右側に
(38)印鐸神社の案内版が・・

勿論、行きます・・笑
右側に咲きほどの鉄骨櫓が見えてます。



左側の白いところに、この路地は行き止まりと・・
この先に右側に入る道がある。

神社らしき屋根が見える・・

チョットした広場です・・
右側に鳥居が・・

地図によれば神明大神宮かな?





入って見たけど・・何処にも名前が見当たらない・・?

同じ広場の西側にも鳥居が・・
(39)印鐸神社







そこら中に蜘蛛の巣が・・





印鐸大神社|兵庫県神社庁 神社検索 (hyogo-jinjacho.com)
元の道に戻ります・・


短パンで行ったので、
蚊に襲われて痒い(笑)

元の道です


県道517号との交差点

前の住宅の玄関には・・

(40)山脇道標があります・・

正面は読めないけど・・
左側の面には

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「山脇道標」で検索↓
山脇の道標は安政6年(1859)に造られ、旧山陽道が山脇に入り、バス道と交差する東南の角にある。
正面には、「右やかじぞう是れより一り」、左側面に「右 ヒメジ左 神戸 安政六年 正月吉日 国□□□□」と刻む。
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この交差点を右折。。




(41)瑞岩寺



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「瑞岩寺」で検索↓
瑞岩院の正式名称は、黄檗宗松光山瑞岩寺といい、
縁起は、宝永年間(1704〜1711)に泰州全士が山脇八方山に一宇を建立したことに始まる。
前庭には、一石丸彫りの阿弥陀如来坐像があり、台座に延享元年(1744)の銘がある。
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先ほどの交差点に戻って・・

東へ

(42)広い交差点に出ました・・

左側の景色

奥には、JR神戸線と山陽新幹線の線路が見えます・・
渡って・・

地図3



細い道を・・


(43)西御着公園



趣のある塀

門構えも良いね〜



(44)山陽道一里塚跡





振り返ると・・

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山陽道」で検索↓
江戸時代の山陽道
山陽道は、かつては西国街道とも呼ばれ、古代は京と太宰府を結ぶいわば国道1号だった。
近世に入ると、街道は江戸が中心となり、山陽道は脇街道となりましたが、西国大名の参勤交代で賑わっていた。
一里塚
旧山陽道、一里塚跡。西御着の工場横に立っている。
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此処から東側は・・
2023.7.26.御着、播磨風土記の里
で既に歩いています、そちらも参照ください。

東へ
なんだか古そうな雰囲気・・

無人住宅かも?



国分寺参道跡

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国分寺参道」で検索↓
昔の国分寺への参道で現在の幅員約2m。奥で横断しているのが、山陽本線(JR神戸線)。
上空から見ると、国分寺の正面に続いているのがよくわかる。
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(45)旧山陽道の標識

子の標識の左側には
道標があります・・

「左 うしどう山」 (牛堂山国分寺)
「右 かみすゞ」(上鈴)
と読むらしい・・・

此処からは踏切を渡って・・・

あとは駅に直行・・・

(46)JR御着駅


到着時間は、9時50分・・

歩いた時は2時間40ふん
家に帰り着いたのは・・11時半ごろでした。

この東側は・・<2023.7.26.御着、播磨風土記の里

以上