Bogey-Don
西国街道探索
長田神社〜神戸駅
<2020年9月23日(水)>
なんとなく、前から考えていたこと「西国街道」を歩きます。
昔の名残を感じられる物を探しながら・・・
参考にしたのはNETで発見した
「西国街道道中の記録」
です。↓
http://k-yagumo.sakura.ne.jp/web/saigoku.html
この探索記録の
西側は・・<2020.9.27.須磨駅〜長田神社>
東側は・・<2020.9.22.神戸駅〜三ノ宮駅>
この日は
朝8時半ごろ地下鉄で長田駅まで移動して・・
@新湊川橋
中央幹線(県道21号線)長田神社付近
須磨方向からの中央幹線、西国街道です、新湊川を渡る・・
新湊川
上流へ
A源平合戦勇士の碑
平家も源氏も一ヶ所に祀られています。
平家方=平知章、平通盛
源氏方=猪俣小平六、木村則綱、木村重章
らの碑があります。
ここで地図を・・
慰霊碑
これは地区の老人会の被災者を慰霊したもの・・2000年1月・・新しい・・
川筋を北に・・右に曲がれば・・多分、長田神社
参道に出ました
B長田神社
長田神社のホームページ↓
https://nagatajinja.jp/
によれば・・
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神功皇后(じんぐうこうごう)摂政元年春2月、皇后が新羅より御帰還の途中、
武庫の水門に於て「吾 (あ)を御心(みこころ)長田の国 に祠(まつ)れ」とのお告げを受けて、
山背根子の女・長媛(ながひめ)を奉仕者として創祀された全国有数の名大社である。(日本書紀 神功皇后摂政元年条 西暦201年と伝える)
古来、皇室をはじめ武門の崇敬あつく、延喜式の制では名神大社 更には祈雨八十五座に列し、
神戸(かんべ)41戸もって奉祀護持され、今日の神戸発展の守護神と仰がれている。神戸の地名はこの神戸(かんべ)に由来する。
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とのこと
神功皇后(じんぐうこうごう)摂政元年とは、このころの西暦との比較は
色々あって・・120年ほど誤差がある・・らしい。
西暦333年ごろらしい・・
超・古い??
本参道を戻りました・・
周りの地図によれば・・監物太郎の碑がある・・
路地裏に入って・・
C監物太郎の碑
さて、西国街道に戻ります・・
西国街道(中央幹線)は此処から右に・・
ここらでは国道28号線と県道21は一緒になっています。
この辺りで、西国街道は中央幹線から外れて右折します・・
D二番町1丁目交差点
木が茂っている辺りで右折
JR兵庫駅方向へ
EJR兵庫駅
しばらく線路沿いに・・
F柳原交差点
次の交差点で、線路を潜ります・・
柳原えびす神社が見えます・・その右側の狭い道が西国街道
次の地図
G西国街道兵庫西惣門跡
さて、西国街道へ・・
福海寺
征夷大将軍足利尊氏が・・
福海寺のホームページ↓
https://fukukaiji.com/
によれば・・
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兼武3年、京都合戦に敗れた足利 尊氏公は、丹波路を取り播州三草より兵庫に来られましたが新田
義貞の兵士に追われるところになり、
急遽福海寺の前身である針が崎観音堂の壇下に身を潜められました。
それにより幸うじて一命を取り留めた足利 尊氏公はその後兵庫を出航され、
九州より西国の水軍を率いて観世音菩薩名号の帆を張った軍船を兵庫の地に再上陸させます。
そして見事湊川の合戦に勝利されます。
室町幕府を開かれた尊氏公は、康永3年(1344年)一命を取り留めることとなった針が崎観音堂への報恩と彼我戦没者供養、
祝国安民祈願の為に、京都正伝寺より在庵圓有(ざいあんえんゆう)禅師を拝請し【福海寺】を開かれました。
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西暦1344年、なら西国街道に面していたでしょう。
柳原えびす神社
神社のホームページ↓
https://www.hyogo-ebisu.com/
によれば
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兵庫のまちは平安時代の昔から「大輪田泊」と呼ばれる良好な港のあるまちとして知られていました。
平清盛の時代には、中国・宋との貿易の拠点として港の大改修工事が行なわれ、一時期は福原に都がおかれた事もあります。
後に兵庫のまちは「兵庫津」と呼ばれるようになり、海陸要衝の地として発展していきました。
蛭子神社は「兵庫津の道」「西国街道」という古い歴史を持つ柳原の中心に建立されています。
元禄5年(1691年)、兵庫津の「寺社改帳」に神社のことが記されていることから、元禄以前から祀られていたことがわかります。
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西暦1691年以前・・西国街道に面していたでしょう。
さらに進んで・・
H国道2号線
を渡ります・・
I神明神社
西暦1692年以前から在る・・西国街道に面していたでしょう。
J能福寺
此処のホームページ↓
http://nofukuji.jp/
によれば、延歴24年(西暦805年)に伝教大師が開祖とのこと。
西国街道からは200mほど離れているが、
この辺りは「兵庫津」と呼ばれる港町だったから旅人が立ち寄ったと思われる。
平家一族が、帰依していたお寺です。
西国街道に戻ります
此処で街道は左折・・
角には・・
K札場の辻跡 が・・
大和田泊の石椋(いわくら)の碑
古代の港・・大和田泊に在った防波堤の基礎部分の石を「石椋」と呼んでいた。
此処でチョット街道をはなれて・・運河へ・・
この辺りが、兵庫津らしい・・
兵庫津について・・この後で出てくる
「樽屋五兵衛」のホームページから引用・・
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1300年前の奈良時代に始まった港機能は平安時代の平清盛によって国内外の交易港として基礎ができ、
"兵庫津"は江戸時代には宿場町として栄え、
北前船の交易地として諸国の産品と情報が溢れ人口も二万人に及ぶ現在の神戸の前身の地域でありました。
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LAEON
に寄ります
トイレ休憩
さて運河の対岸に・・
M兵庫城跡
兵庫運河の水面では、
「WATERFANTASIA KOBE」
(大型ウォータースクリーンと噴水、LED照明を駆使した幻想的な音楽噴水ショー)
の準備中・・
また西国街道に戻ります
樽屋五兵衛
ここのホームページ↓
https://www.kobe-tarugo.com/
によれば・・
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樽屋五兵衛は江戸時代文政年間(西暦1818年)以前より、
此処"兵庫津"において姫路藩御用達として伝承されているだけでも漢方医・両替商・造船・マッチ等商いを営み、
岡方会館近郊寺院等の要所を代々重ねてきました。
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とのこと・・
西国街道に面したお店だったようです。
N岡方惣會所趾
この建物は、昭和2年に兵庫商人の社交場として建てられたとのこと。
現在は「兵庫歴史館 岡方倶楽部」となっています。
FaceBook↓
https://www.facebook.com/okagataclub/
O国道2号線
行き止まり・・笑
仕方がないので・・東に・・
次の交差点の右側には・・
P七宮神社
兵庫県神社庁のホームページ↓
http://www.hyogo-jinjacho.com/data/6301057.html
によれば・・
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御創建の年代は詳かではないが、『延書式』に戴する八部郡●売神が、七宮の前身と称されている。(●はサンズイに文)
兵庫の津北浜の産土神として、
応保3年(1163)、平清盛が福原遷都計画と共に、築島の大工事が無事に竣工した事により、
神恩感謝の為、自筆の南無七大明神の神写と金幣を併せて奉納した。
平家一族の崇敬特に厚き事、『平家物語巻六経島の事』に記載あり。
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とのこと・・古いね〜
西国街道からは100mほど離れている。
七宮交差点を渡ります・・
振り返ると、七宮神社の屋根が見えます
ここで西に戻ります
Q西国街道に戻りました
さて次の地図です
西国街道
JR高架が見えます
R湊口惣門跡
みなと八幡神社の前に・・
みなと八幡神社
ここのホームページ↓
http://minatohathiman.web.fc2.com/
によれば・・
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湊八幡神社由緒は兵庫区兵庫町(旧湊町1丁目)に在り、御祭神は応神天皇をお祀りしております。
神功皇后三韓征伐の帰途、摂津国岡野村にお立寄りになられた時、応神天皇がお生まれにならんとしたため、
その地の霊石をお探しになりご誕生の延期をお祈りしました。
その祈りが通じた為、その後其の霊石を岡野村より福原街東溝下旧長谷川楼の辺りに迎えて一社を創立し、
その後現在の地に奉遷、湊玉生八幡宮と称されておりました。
そのことは天和二年壬戌八月十五日識すところの旧記により天和以前に創祠されていたことを確認できます。
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とのこと・・
天和2年は西暦1683年、それ以前から存在していたとのこと・・
西国街道に面していた。
次は・・
SJR高架下を潜ります
渡ったところで斜めの道が西国街道
三笠屋
ここのホームページ↓
http://mikasaya2.lv9.org/
によれば・・
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三笠屋は文政二年に兵庫神戸の地で焼通し蒲鉾店を創業してから今日に至る200年の間、
焼通し蒲鉾の伝統を受け継いでまいりました。
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とのこと・・文政2年は西暦1819年、
西国街道に面したお店だったようです。
(21)新開地本通りを渡り、真っすぐに・・
(22)西国街道の碑
おっと・・見過ごしそう・・
裏側
さらに進み
JR神戸駅前のバスロータリー
(23)JR神戸駅に到着
丁度、12時過ぎに到着・・
この日は此処まで。
この東側は・・<2020.9.22.神戸駅〜三ノ宮駅>
以上