Bogey-Don
西国街道探索
神戸駅〜三ノ宮駅


<2020年9月22日(火)>

この日は祭日です、良い天気♪
なんとなく、前から考えていたこと「西国街道」
を歩いてみました。
昔の名残を感じられる物を探しながら・・・

一番近場の、JR神戸駅から三ノ宮駅まで・・
参考にしたのはNETで発見した
「西国街道道中の記録」
です。↓
http://k-yagumo.sakura.ne.jp/web/saigoku.html

この探索記録の
西側は・・<2020.9.23.長田神社〜神戸駅
東側は・・<2020.10.11.本街道、三ノ宮駅〜新在家駅
・・・&・・・<2020.10.16.浜街道、三ノ宮駅〜新在家駅

朝10時ごろJR神戸駅まで歩いて

@JR神戸駅&旧相生橋



西国街道は、駅の東側の高架(赤い矢印)を潜っています・・

右は通り抜けた景色・・
赤い矢印の部分が
旧相生橋
でした。
此処には線路が高架になる前に日本初とされた「相生跨線橋」がありました。

明治初期の相生橋からの眺め・・写真の右手前に相生橋の手すりが写っています。

1910年(明治43年)には、橋の上を路面電車が走ったらしい。

1931年(昭和6年)鉄道の高架化が行われて・・相生橋はなくなりました。
奥の建物は三越ですね〜

NETで見つけた当時の三越

ここらで地図を・・


A機関車
D51が・・

これは、どんな意味があるのか・・NETで調べると
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旧国鉄の蒸気機関車「D51型」、「デゴイチ」という愛称は聞いたことある人も多いんじゃないでしょうか。
「1072」は製造番号なので、1072番目に造られた車両ということ。
神戸の街を実際に走っていたものではなく、走っていたのは「北海道」で、
「国鉄最後の蒸気機関車」のひとつということで、神戸市がお願いして無償で借りたもの。
この近くには、かつて「相生橋」という日本で初めて線路の上をまたぐために造られた橋「跨線橋(こせんきょう)」があったり、
「東海道本線」の終点になっていたり、神戸の鉄道にとって意味ある場所なので、シンボル的に「機関車」が置かれたようです。
以前は、元町商店街の近くでしたが、平成4年ハーバーランド一帯の整備のタイミングで、ちょこっと移動して目立ちにくい場所に…。
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とのこと・・

そのまま道なりに進んで・・

元町商店街アーケードが見える前の広場です・・

Bきらら広場

此処には

兵庫縣里程元標
があります。


C明治維新開港當時關門趾
六丁目商店街に入ってすぐ右側には・・

商店街入口の「DAIICHI GRAND HOTEL」・・ここが昔は三越でした。
その壁に♪白い矢印のあたり・・



商店街出口側の大丸の付近が、旧居留地です。
そのあたりに在った関門の姿を此処にとどめていました。
先に進みます。


D走水神社(ハシウドジンジャ)

商店街の右側を見ると走水神社発見・・ここから海側に一筋行くと・・

走水通りと呼ばれる道らしい・・

兵庫県神社庁のホームページ↓
http://www.hyogo-jinjacho.com/data/6301053.html
由緒書きによれば・・
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900年頃、菅原道真公筑紫へ御左遷の時、此の地に立寄せられ、百姓・漁人に高徳を施したるを、
後年、村人達は其の余徳と温情を偲び慕う切なる情から敬仰し、旧跡に祠を建立、篤く祀ったのが起源と伝う。

江戸時代後期の地図

明治元年(1868)11月、神戸村・二ツ茶屋村・走水村の3村が合併して神戸町となり港町「神戸」となった。
明治7年(1874)、神戸港の発達に伴い旧走水村・二ツ茶屋村・神戸村を区域整理して、
栄町・海岸通・又北長狭通と町名が改められ、
明治8年(1875)近隣の八幡社を合祀、旧走水村の地名をとって走水神社を創建した。
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とのこと・・古いね〜



また商店街に戻ります・・
五丁目に入りました。

次の地図です




E三丁目に入りました
この辺りから人が多くなります。


F神戸風月堂 元町本店

風月堂のホームページ元町本店↓によれば・・
http://www.kobe-fugetsudo.co.jp/honten.html
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明治30年(1897年)12月12日、現在地(元町通3丁目3番10号)に神戸風月堂を開店する。

昭和5年当時の写真
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とのこと・・古いね〜

一丁目です・・

右側には

G南京町
入ってみます・・



南京町のホームページ↓によれば
https://www.nankinmachi.or.jp/
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南京町の誕生は、明治元年(1867年)の神戸港開港からといわれています。
(注)神戸開港は、慶応3年12月7日、西暦1868年1月1日、ユリウス暦1867年12月20日
次の慶応4年は明治元年で1月1日は西暦1868年1月25日、ユリウス暦1868年1月13日
当時の日本はまだ西暦を正式に取り入れていなかったので、
色んな文書のこの時期の記述は、日付や年号が色々と混在しています。

当時の清国は日本と条約非締結国であったため、外国人居留地に住むことが出来ず、
その西側に隣接する現在の「南京町」のあたりに居を構え、雑貨商、豚肉商、飲食店などを始めたことから、
中国人が多く住む町として「南京町(なんきんまち・なんきんちょう)」「南京街(なんきんがい)」と呼ばれるようになったのです。
昭和初期には「南京町に行けば何でもある」と評判になり、「関西の台所」として大いなる繁栄をみせました。
しかし、昭和20年の神戸大空襲で元町一帯は全焼。戦後はバラックが立ち並ぶ闇市となり、
やがて外国人バーが林立する裏通りに変貌してしまいました。
昭和50年代になり、南京町一帯が神戸市の区画整理事業の対象となったことから、
商店主たちが「南京町を復活させよう」と南京町商店街振興組合を設立。
かつての繁栄を取り戻すために中華街としての町づくりをスタートさせました。
名称を「南京町(なんきんまち)」に統一し、ハード、ソフト両面にわたって整備を重ね、今の「南京町」を作り上げたのです。

昭和8年頃の南京町の様子

終戦直後の南京町の様子
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とのこと・・ここも古い歴史がある。

また元に戻って、そろそろ商店街の出口・・


H大丸
交差点の向こうには大丸が・・
西国街道は大丸のすぐ北側を通っています。

創業1717年

1717年って享保2年?ほんとかい?
調べてみると・・
1717年の創業は、京都伏見に呉服店「大文字屋」を開業。
となっていました。
神戸に支店を開業したのが1913年(大正2年)
この場所に建てられたのは、1927年(昭和2年)
それでも、古い♪

大丸の南側&東側一帯は
I旧居留地







旧居留地のホームページ↓
https://www.kobe-kyoryuchi.com/
によれば・・
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初代駐日英国公使R.Alcockが、長崎から帰る途中に視察のために神戸に上陸し、
この一帯は、外国人居留地として好適であると、日本の役人に伝えています。

神戸は、横浜より約9年遅れ、1868年(慶応4年)1月1日に開港することになりました。
(注)神戸開港は、慶応3年12月7日、西暦1868年1月1日、ユリウス暦1867年12月20日
次の慶応4年は明治元年で1月1日は西暦1868年1月25日、ユリウス暦1868年1月13日
当時の日本はまだ西暦を正式に取り入れていなかったので、
色んな文書のこの時期の記述は、日付や年号が色々と混在しています。

神戸外国人居留地は、当時の兵庫の市街地から、3.5km東に離れた所に、建設されました。
その理由は、日本人と外国人との紛争を避けるためでした。そこは、当時、砂地と畑地であった神戸村でした。



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とのこと


元の道に戻って・・

J三宮神社





三宮神社のホームページ↓によれば
http://sannomiyajinja.jp/
神戸事件は・・
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1868年(明治元年)正月4日、備前藩から西宮へ警備のために約500人の一隊が移動中、
突然外国人が行列を横断しようとしたので 無礼を怒った藩士が その外国人を傷けた
それがもとで 当時港に碇泊中の米、英、仏、伊、和、普の外国軍艦の 陸戦隊と銃火を交える騒ぎとなった。
危うく香港のように外国に占領されそうな事態となったが、
備前藩士 滝善三郎正信は責を一身に負い兵庫永福寺で見事な切腹をして事件は落着をみた。
正信の犠牲は日本を植民地化せず 神戸を第2の上海、香港たらしめずに済んだ。
幕末より明治の初めにかけて外交上の難関は多かったが この事件ほど外交史上に重大性を帯びて
その推移に興味ある事件はけだし稀であろう。
(注)神戸開港は、慶応3年12月7日、西暦1868年1月1日、ユリウス暦1867年12月20日
次の慶応4年は明治元年で1月1日は西暦1868年1月25日、ユリウス暦1868年1月13日
当時の日本はまだ西暦を正式に取り入れていなかったので、
色んな文書のこの時期の記述は、日付や年号が色々と混在しています。

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と記されている。

西国街道は、もう少し東に行ってから・・北に向きを変えます。
地図


K朝日ビルディング



大きくて太い柱・・古そうな建物だが、
竣工1994年、意外に新しい・・興味なし(爆)

此処で北に向かって・・

L生田ロード入口

生田ロードはもともと生田神社の参道です・・

この赤鳥居の場所には当時、
石造りの鳥居が立っていました。
安政(1850年代)の大地震で倒壊したとのこと・・



生田神社の奥の生田の森に残されています。

此処を
真直ぐ行くと、三ノ宮センター街に入り、
そこで西国街道は「浜街道」と「本街道」に分かれます。

M浜街道への分岐点

生田神社の参道の途中から浜街道が分岐していたことになります。
とりあえず浜街道へ・・

すぐに突き抜けます

Nフラワーロード
に出ました。

左側がJR三ノ宮駅方向・・
交差点を渡って・・真っすぐ行きます。

この辺りは・・見るべきものなし?



モノレールを超えて・・



O御幸通4丁目交差点
ここらで、引き返すことに・・

浜街道・・今日は此処まで・・

P本街道
生田ロードに戻りました・・
本街道は生田神社方向に・・






Q生田神社

生田神社のホームページ↓
https://ikutajinja.or.jp/
によれば、その由来は・・
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神功皇后(ジングウコウゴウ)元年(西暦201年)三韓外征の帰途、
今の神戸港にて船が進まなくなったために神占を行ったところ、
稚日女尊(ワカヒルメノミコト)が現れ、「私は活田長峡国に居りたい」と申されたので、
海上五十狭茅(ウナガミノイサチ)という者を神主として祀られた。
当初は砂山(イサゴヤマ)に鎮座していた。
延暦18年(西暦799年)に洪水で布引の渓流が氾濫し、砂山西端が崩壊し、社殿が傾斜する被害が及んだため、
生田村の刀禰七太夫なる者がご神体を背負い7、8日間鎮座地を探し巡り、
生田の森に至った時、突然背負ったご神体が重くなりこれ以上歩けなくなった。
これはご神意であろうとその場所安置した。
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とのこと・・超・古い、
西国街道が生田神社の参道と重なっていました。

西国街道は、この手前で・・東に・・
R生田新道へ

すぐに抜けて・・

SJR三ノ宮駅


西国街道は・・JR三ノ宮駅を斜めに横切っています・・

駅舎の中を抜けるて、海側の斜めの道に・・・
駅舎の近傍では、だいたい下の写真のあたりを・・

左:山側 右:海側

(21)西国街道の碑








(22)雲井通4丁目交差点

この日は本街道も此処まで・・

本街道・浜街道ともに中央区役所付近で今回は終わります。

この東側は・・<2020.10.11.本街道、三ノ宮駅〜新在家駅
・・・&・・・<2020.10.16.浜街道、三ノ宮駅〜新在家駅

以上