Bogey-Don
西国街道探索
御着、播磨風土記の里
なんとなく、前から考えていたこと「西国街道」を歩きます。
昔の名残を感じられる物を探しながら・・・
参考にしたのはNETで発見した
「西国街道道中の記録」
です。↓
http://k-yagumo.sakura.ne.jp/web/saigoku.html
この西側は・・<2023.8.13. 京口駅〜御着駅>
この東側は・・<2023.8.3.御着駅〜曽根駅>
<2023年7月26日(水)>
この日は
午前8時過ぎに家を出て、JR御着駅には9時ごろに着きました。
此処は姫路市です。
@JR御着駅北側
駅前の道路を北に進みます・・
すぐに
A西国街道との交差点
に出ます・・
地図1
西側は、
この道が西から来る西国街道です。
ここを東に・・
B御国野南交差点
まっすぐ進みます
C天川橋
川は天川
上流
下流
更に真っすぐ・・行くと、左側に
D徳證寺
浄土真宗本願寺派の寺院
門は閉まっていた・・大きな伽藍が見えている。
初めは播磨国国分尼寺で、真言宗の古刹だったらしい。
さらに真っすぐ・・
民家に咲いていたノウゼンカズラ
次の道を左折
E小寺大明神
史跡の看板が・・古墳もある・・
下に見えるのは、国道2号線
その向こう側には、
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「小寺大明神」で検索↓
御着城本丸跡にあり、三代の城主(小寺政隆公・則職公・政職公)と当時の戦死者を祀る。
同じく東隣に開運繁栄の神である当勝稲荷社(まさかついなりしゃ)がある。
同所公園内に城主供養の墓と天川政隆氏の歌碑がある。
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また元の道に戻ります・・
F御着宿本陣跡
御着公会堂の横に看板が・・
姫路と加古川の間に在った宿場。
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「御着宿本陣跡」で検索↓
御着の旧山陽道を東へ進むと、なかほどに「御着宿本陣跡」の標識がたてられている。
御着本陣は、天川家が勤め、敷地約2100坪、本屋の部屋数30室、
そのうち畳敷きが26室で、建坪約130坪の平屋建と伝えられている。
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さらに進みます・・
左側に・・
G大歳神社
本殿
天井には
たくさんの絵馬が・・
大歳神社|兵庫県神社庁 神社検索 (hyogo-jinjacho.com)
由緒を読めば、かなり古い神社のようです。
創建時期は不詳、古くは御着村大明神とも呼ばれ、
御着の氏神だった。
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「御着大歳神社」で検索↓
拝殿に、明治・大正・昭和の絵馬がたくさんあり、歴史絵巻を見るようである。
当社の遺物としては、門前にある天満神社の鳥居には寛文十三年九月の文字が彫られていて、
当時はこの鳥居が当社の鳥居であったようである。
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戻る途中に・・
東側に出る道があります・・
出たところが・・
H延命寺
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「延命寺」で検索↓
明治天皇御休所の碑
延命寺の南側、門の前に建っている。明治18年、当時まだ鉄道がなく、
山陽道を通って山陽方面を巡幸された天皇が、この延命寺で休まれた。
この碑は昭和10年に建てたもので、寺の境内にも、記念碑がある。
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1885年(明治18年)8月9日、明治天皇は姫路の本徳寺を出発した後、ここ御着の延命寺、
阿弥陀の地蔵院、寺家の山脇伊平宅、土山の増田性蔵宅、大久保の安藤彌三太宅でそれぞれ休憩し、
明石の光明寺に宿泊されました。
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とのこと
天台宗 北條山 延命寺のホームページ (tendai-enmeiji.com)
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「延命寺」で検索↓
延命寺の板碑
本堂の西北隅に板石碑があって上部正面に阿弥陀如来をあらわす梵字が刻まれており、
左に「貞和元年」(1345)、右に酉年仏らしい文字がかすかに見える。
庶民はりっぱな仏像を作るかわりに、板碑を作って拝んでいた。
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さて、
西国街道はここでさらに東に行きますが、
この日は、
北側に進んで御着城跡や古墳巡りをいたします。
I御着交差点
国道2号線に出ました・・
渡って
左折します・・
右側に・・広い道と広場が・・
この左側が・・
J御着城跡公園
御着城本丸跡
永正年間(1504〜1521年)、姫路城主小寺正隆が築城し、
ここに移り本拠とした。
城主三代約60年続いたが、天正年間(1573〜1592年)
羽柴秀吉の軍勢に攻められ落城した。
奥に見える建物は
姫路市東出張所
広場の左には
黒田官兵衛顕彰碑
さらに
出張所の裏側には
ありし日の天川橋
が復元保存されています・・
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「天川橋」で検索↓
天川橋(虹の橋)
天川橋は御着の天川に架けられていたもので、文政11年(1828)姫路藩の築造で総竜山石製。
5本の橋脚によって支えられ、全長26.6m、幅4.45m、高さは5m。現在は姫路市立東出張所裏に移設保存されている。
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さて・・
此処からは古墳の方に向かいます
K姫路市東出張所の裏の道
を
北西に・・
うねうねと・・
天川の左岸に出ます・・
北に進んで・・
L御国野橋
上流
下流
此処を渡って・・
西に進みます・・
道は狭くて
うねうね・・
地図2
M県道397の陸橋
に出ました、陸橋を渡って
さらに西に・・
N三叉路
にでました・・此処を右折
北に進みます・・
道の左側には
O古墳が見えた
看板発見♪
P壇場山古墳案内板
此処を左折・・
壇場山古墳登り口
どうやら古墳に登れそうです・・
5世紀前半の築造、
長さ140mの前方後円墳・・国指定史跡
周囲に濠がめぐらされ、後円部墳頂には組み合わせ式長持形石棺の一部が露出している。
後から出てくる、天満神社がこの方形部分に100年ほど鎮座していたらしい・・
以下は天満神社の由緒から抜粋
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壇上山古墳は耕地中に造営された一大墳丘で、その形はいわゆる前方後円形を示し、
大きさは縦径約140m、横径82m、環濠の幅3〜22m、後円部高さ約10m、濠外周囲約530メートル余を測る。
後円部頂上に石棺蓋石が露出し、大きさは長さ2.7m、広さ1.2mでその形状により組合せ式の長持形石棺と思われる。
前方部には天満神社が奉祀せられるためいささか原状を損ぜるも、
全体としてよく旧観を残し県下屈指の大古墳として注目に価するものである。
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とのこと・・
頂上に石棺がありました・・
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「壇場山古墳」で検索↓
全長約143m、5世紀前半の前方後円墳で、南南東に後円部を、北北西に前方部を向け、
くびれ部の西側に造り出しが認められる。
周囲には陪塚の第1、第2古墳がある。西播磨最大の古墳で国指定史跡。
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木々が生い茂っていて、蚊の大群が襲ってくる・・
急いで引き返しました・・
元の道に戻って・・
次の古墳の看板が・・
Q山之越古墳案内板
此処を左折・・
次の角を右折します・・
住宅街の中から
R山之越古墳
が見えています・・
地図では、
史跡第三古墳と書かれている・・
石碑も第三古墳と・・
少し歩いて西に回り込みます・・
S登れそうな広場
上まで行けそうです・・
草が深い
頂上には・・
石棺がある・・
一辺約50m・高さ約7mの方墳
5世紀中ごろの築造・・国指定史跡
頭頂部に竜山石製の長持形石棺が露出している・・
明治期の調査で人骨のほか獣帯鏡や玉類、刀剣類が出土している。
頂上から北を見ています・・
住宅街の中ですね〜
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「山之越腰古墳」で検索↓
第三古墳と書かれた石柱が立つ。一辺約50mの方墳で、周囲に濠もめぐっていたようである。
盛り土が削られているが、頂上に大石棺が見えている。
明治30年、発掘調査され、鏡・刀剣・玉などが出土した。国指定史跡。
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さて・・
路地を通って
古墳の案内板があった道に戻ります。
さらに北に進みます
(21)天満神社の石柱
左折します・・
天満神社|兵庫県神社庁 神社検索 (hyogo-jinjacho.com)
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創立年代は不詳だが、永く壇上山古墳上に奉祀され、
明治7年(1874)2月村社となり、大正5年(1916)無格社(兵庫県神社誌)大年神社を合祀した。
平成11年(1999)9月に文化庁による史跡壇上山古墳の整備計画に伴い
百有余年鎮座の地を離れる事を余儀なくされ、この地に御新築遷座した。
神社の創立年代はわからないが、古墳の上に、おそらく江戸時代に建立されたのではないかと思われる。
元々村の鎮守は大年神社であり、その後天神信仰の流布により、天満神社が祀られたものと思われる。
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とのこと・・
元の道に戻ります・・
(22)三叉路
交差点だが、正面の道は車進入禁止らしい・・
此処で左折・・
(23)播磨国分尼寺跡
姫路市埋蔵文化財センターのHPより抜粋
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国分尼寺は天平13年(741年)の聖武天皇の勅願により、国分寺とともに各国に建立された寺院である。
播磨国分寺跡の北約600mに位置している。これまでの発掘調査の結果、寺域は東西134m、南北180mの規模を有し、
周囲は築地で囲まれ、南大門、中門、金堂、講堂が一直線に並んでいたとみられる。
また、瓦工人集団の略称ではないかと考えられる「嶋主」などの文字が描かれた瓦が50点以上出土している。
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「国分尼寺」で検索↓
播磨国分尼寺の所在地については江戸時代の地誌「播陽万宝智恵袋」に、
「国分寺村に、今国分尼寺の旧跡あり」と記載があり、その考証は、かなりの数にのぼっている。
碑のそばの大きな石は、この付近から出た寺の礎石。
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(24)旧有馬道の道標
「北たじま」 「西ひめじ」
と刻まれてるらしい・・
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「旧有馬街道の道標」で検索↓
旧有馬道沿いにひっそりと「北たじま、西ひめじ」と刻まれた道標がある。
有馬道は姫路から真東へ裏六甲の谷間を通って京へ行く近道であった。
また、昭和の初期にはバスも通っていた。
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此処を真っすぐ進んで・・
(25)交差点
を左折・・
ひたすら道なりに進みます・・
(26)国分寺西交差点
国道2号線に出ました・・
渡って
地図3
左折します・・
次の国分寺交差点
の手前で右を見たら・・
(27)牛堂山国分寺
左側には
播磨国分寺跡書いているが、
もう薄れてしまって読みにくい・・
国分寺の一部が、縮小して残されているようです。
お寺の東側に出ます・・
ここを右折・・
少し進むと・・右側に・・
(28)播磨国分寺跡
この広さ・・
姫路市埋蔵文化財センターのHPより抜粋
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国分寺は天平13年(741年)の詔により、国ごとに建立された官寺である。
発掘調査によって、方2町(一辺218メートル)の寺域の中に、南から南大門・中門・金堂・講堂などの伽藍配置が考えられ、
回廊や築地跡なども検出されている。東南部に位置する塔跡には、心礎を中心に礎石群が現存する。
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「播磨国分寺」で検索↓
国分寺は、奈良時代聖武天皇の詔により、国毎60余ヶ所に設置することが、定められた官寺。
国分寺は方二町(一辺200m)の範囲が寺域で現在、国指定史跡となっている。
現在の国分寺の境内には県指定の宝篋印塔などがある。
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さて・・
元の道に戻ります・・
ここを右折・・
(29)踏切
御着駅方向・・
まっすぐ進むと・・
(30)西国街道との交差点
に出ます・・・
後日、8月13日に姫路方向から此処まで来た時に・・
此処にも道標があることに気が付きました・・
交差点標識の左側です
「左 うしどう山」 (牛堂山国分寺)
「右 かみすゞ」(上鈴)
と読むらしい・・
ここを右折・・
右側に細い道が・・
(31)国分寺参道跡
この道が西国街道につながる参道だったらしい・・
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「国分寺参道」で検索↓
昔の国分寺への参道で現在の幅員約2m。奥で横断しているのが、山陽本線(JR神戸線)。
上空から見ると、国分寺の正面に続いているのがよくわかる。
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(32)山陽道一里塚跡
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「山陽道」で検索↓
江戸時代の山陽道
山陽道は、かつては西国街道とも呼ばれ、古代は京と太宰府を結ぶいわば国道1号だった。
近世に入ると、街道は江戸が中心となり、山陽道は脇街道となりましたが、西国大名の参勤交代で賑わっていた。
一里塚
旧山陽道、一里塚跡。西御着の工場横に立っている。
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さて・・今回の西国街道は、
此処が西の端です。
此処からは西国街道を辿ってJR御着駅に引き返します・・・・
先ほど渡った踏切よりJR御着駅に近い踏切を渡ります。
(33)踏切の先の三叉路
右に行けばJR御着駅に近いのだが・・
西国街道は真っすぐです。
前に進みます・・
今朝、出発した
A西国街道との交差点
に到着・・
駅に戻ります
@JR御着駅
に到着・・
着いたのは、12時40分
家に帰り着いたのは・・・
午後3時前でした。
この東側は・・<2023.8.3.御着駅〜曽根駅>
以上