Bogey-Don
西国街道探索
御着駅〜曽根駅


なんとなく、前から考えていたこと「西国街道」を歩きます。
昔の名残を感じられる物を探しながら・・・

参考にしたのはNETで発見した
「西国街道道中の記録」
です。↓
http://k-yagumo.sakura.ne.jp/web/saigoku.html

この西側は・・<2023.7.26.御着、播磨風土記の里
この東側は・・<2022.4.10.曽根駅〜加古川駅

<2023年8月3日(木)>

この日は
午前5時半に家を出て、JR御着駅には7時ごろに着きました。

@JR御着駅

此処は姫路市です。
此処から、御着宿本陣跡
までは、
御着、播磨風土記の里
で既に歩いているので・・そちらを見てください。
とりあえず・・

天川橋

を渡って・・てくてく・・

地図1


A御着公会堂・御着宿本陣跡

御着公会堂の横に本陣跡の看板があります・・
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姫路市Webマップ − トップページ − (sonicweb-asp.jp)
「御着宿本陣跡」で検索↓
御着の旧山陽道を東へ進むと、なかほどに「御着宿本陣跡」の標識がたてられている。
御着本陣は、天川家が勤め、敷地約2100坪、本屋の部屋数30室、
そのうち畳敷きが26室で、建坪約130坪の平屋建と伝えられている。
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さらに東に少し進むと・・
B小原家住宅

姫路市の

都市景観重要建築物等
に指定されている。

さらに東に進むと・・左側には、
大歳神社

延命寺

が並んでいます・・此処の詳細は
御着、播磨風土記の里
で既に歩いているので・・そちらを見てください。

さらにチョット東に行くと・・
右側にもう一軒の都市景観重要建築物等・・が
在るはずだが・・ない??

C井内家住宅の跡地

どうやら、この空き地に在ったらしい・・

NETで見つけた小原家住宅の写真・・2013年撮影
住宅の前の電信柱は無くなっているが、
遠くに見える電信柱は、
空き地の写真と同じに見える。
調べてみたら・・

2022年11月に指定解除されたらしい・・
理由は??

空き地の東にも・・

趣のある家が見えますね〜

地図2


さらに進みます・・


D福乗寺







姫路市Webマップ − トップページ − (sonicweb-asp.jp)
「福乗寺」で検索↓
播磨国の真宗三道場の一つとして建てられた。姫路城主池田輝政の大谷派に対する迫害のため、
一時、但馬国出石町(現在の豊岡市出石町)に逃避していたが、
元和9年(1623)に現在の場所に帰り、福乗寺として再建。

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更に進みます・・


左側に
何かがある・・
E塞の神(さえのかみ)かな??




更に少しし済むと・・

右に入る狭い道がある・・

この辺にお稲荷さんが在るはず・・
右折です・・

右側は、超・古そうな土塀♪

これだけでも絵になる・・

在りました・・
F稲荷神社

吃驚するほど・・整備されていない(笑)



稲荷神社|兵庫県神社庁 神社検索 (hyogo-jinjacho.com)
だいぶボロイけど・・
兵庫県神社庁のHPには載っていました・・
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当神社はべっしょの民話伝説によれば、お稲荷さんは相撲が大好きで、
昔佐土の村によく火事があり、お稲荷さんに伺うと、「初午の日に相撲をすれば良い」とのお告げがあって、
毎年初午には境内で相撲をする様になり、それ以後村では火事がおこらなくなったと言われている。
現在は相撲は行われていない。
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とのこと・・

元の道に帰ります・・


さらに進みます・・

次は、左側に・・
またまた・・


G塞の神、二個目



こちらの方は、
グーグルマップに名前が載っている・・
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村や部落の境にあって,他から侵入するものを防ぐ神。
邪悪なものを防ぐとりでの役割を果すところからこの名がある。
境の神の一つで,道祖神,道陸神 (どうろくじん) ,たむけの神,くなどの神などともいう。

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姫路市Webマップ − トップページ − (sonicweb-asp.jp)
「塞の神」で検索↓

佐土集落西寄りの旧山陽道「たかじょの坂」の中間付近に、
一間四方(約1.8m×1.8m)の大きさに玉垣に囲まれた数個の自然石と小祀(祀られた石)、
その後方に宝篋印塔の一部と思われる石材が祀られている。

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さらに進みます・・



左側に何かが・・

地蔵堂かな?


H歸敬三寶閣(地蔵堂)

難しい漢字ですね〜
グーグルマップには、この名前が載っている・・
多分・・「帰敬三宝閣」かな??


「帰敬(ききょう)」とは、

浄土真宗の教えによれば、
お釈迦さまの弟子となり、浄土真宗の教えの中に生きていくことを誓う大切な儀式を
「帰敬式(ききょうしき)」と言うらしい。


さらに進みます・


左に広場が・・

何かある・・

I昔の井戸


のようです・・

まだ使われているような・・

さらに進みます・・
J県道399号線


此処を真っすぐに・・

K県道312号線

を潜ります。。


地図3




L佐土橋


川は佐土川・・上流

下流

更に真っすぐ・・

M交差点に出ます・・

此処で左折・・


N国道2号線佐土東交差点

にでます・・

此処を渡って・・

右折です・・

O別所口西交差点

此処で、国道2号線から分かれて・・
左側の斜めの道に入ります・・




川がある・・
無名の橋でしね〜

上流

下流

左側に・・


P弁慶地蔵





看板によれば・・

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泡子地蔵ともよばれ、凝灰岩質の板石に地蔵坐像を刻したもので、
「天文二二年(一五三五)乙未八月廿六日」の銘文がある。
もと佐土との境にある川の辺りに埋まっていたのを、
今の場所に移したもので、かつては子宝地蔵として参拝者で賑わったという
弁慶の母は、福居村(別所)の生まれで山廼井といい、父は熊野神社別当であるという。
書写山に預けられた弁慶が、京からの帰途、
福居村庄屋の娘玉苗と一夜を共にしたのが、この地蔵堂であると伝えられている。
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「弁慶地蔵」で検索↓
別所の旧山陽道沿いにあり、別名泡子地蔵と呼ばれる。
本尊は、凝灰岩質の板石を掘りくぼめ、
地蔵坐像を陽刻し「天文二二年(1535)乙未八月廿六日」ほかの銘文がある。
かつて子宝地蔵として参拝者も多かった。
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とのこと・・

さらに進みます・・


地図4




左側に・・


Q別所西消防ポンプ倉庫

その北側には・・

お寺が在るらしい・・行って見ます。

R安養寺





曹洞宗 安養寺 | 姫路で坐禅(座禅) (anyozenji.com)
禅寺ですね〜
草創1300年らしい。
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「安養寺」で検索↓
本尊は阿弥陀如来、曹洞宗で姫路景福寺の末寺。
「姫路城史」に天正7年(1579)、羽柴秀吉は御着城攻めに際し、別所村安養寺と民家に放火。
このとき安養寺衆徒も御着城に立て籠もったとある。
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元の道に戻ります・・




S広い交差点に出ました・・

左を見ると、
大きな石灯篭がある・・
この灯篭は日吉神社雨乞願常夜灯とのこと・・

この北側に神社が在るらしい・・行って見ます・・

左側には・・別所小学校


(21)日吉神社

別所西屋台倉庫

と看板が・・
お祭りの大きな屋台が保管されているらしい・・



絵馬がたくさん・・



本殿

日吉神社|兵庫県神社庁 神社検索 (hyogo-jinjacho.com)
この神社は、
別所西獅子舞が有名らしい・・
姫路市指定重要無形民族文化財
別所西獅子舞 - bessho-nishi-shishimai ページ! (jimdofree.com)
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「日吉神社」で検索↓
もと山王権現、天照大神、牛頭天王、薬師如来を合祀していたが、
明治初年の神仏分離により、江州日吉神社より大山祇神を勧請、雨神として知られる。
参道入口の常夜灯は、明治20年に雨乞い開願によって建立されたもの。
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さて、元の道に戻ります・・
左側に、宮池が見えています・・

地図では宮の池と表示されています・・

池は蓮の花盛り・・


さて、元の交差点に戻ってきました・・


道の右側に・・
(22)道標

薄くなってるけど・・
別所村道路元標

と刻まれている・・
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「別所村道路元標」で検索↓
表面に別所村道路元標と施刻、高さ65cm、25cm角。姫路市内には、
亡失も含めて41本の道路元標が設置されており、
別所村道路元標の位置については、印南郡別所村別所東上代1635地先地番となっている。
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左側には別所公民館

その前を東に・・

少し進んだ、

左側に・・

(23)延命地蔵尊




さらに進みます・・


左側に大きな池が見えてきました・・緑色ですが・・

(24)小林池



次は大池


地図5


さらに進みます・・


(25)広い交差点

右側には・・

内科医の建物・・

さらに進みます・・


左側に・・見えてきたのは


(26)六騎塚







NETで調べた一部を抜粋・・
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『太平記』が伝える児嶋範長最期の場所、
延元元年(1336)と言えば南朝の年号で、北朝では建武3年のこと。
足利軍と戦い、敗軍となりながらもわずかばかりの兵を率いていた児嶋備後守範長は、
吉野に追われた後醍醐天皇を救い出そうと岡山備後から東上した。延元元年(1336)5月・・
児嶋範長とその三男の高徳は、東上の途中、歯が抜けるように味方が減っていた。
敗残兵一族27騎を率いて山越えし、赤穂の坂越の浦に出た。
ところが足利方についていた那波城主・宇野重氏がこれを聞き付け、手勢50騎を従え範長の後を追う。
現在の高砂市、伊保の庄から阿弥陀宿で戦いを交えること18回、
範長の味方は減り、三男高徳までもが重い傷を負っていた。
ふと見かけた辻堂へ駆け込んだ落ち武者主従は、わずか6騎に減っていた。
今は、これまで。6騎は此処で腹かき切った。
範長は念仏を唱えながら腹を切り、刀を口に咥えて伏せたと言う
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「六騎塚」で検索↓
建武3年、児島高徳の父範長主従6人が自害した跡と伝えられる。
北宿の旧山陽道北側に碑が建っている。正面に「備後守児嶋君墓」
裏に「嘉永三年庚戌年(1850)五月十九日 佐和田清左衛門範一建之」と彫られている。
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楠木正成と同じく後醍醐天皇側で戦い負けた武将なのだが、
あまり有名じゃないのが不思議?手入れもされていないし(笑

一説には、生き残った一人がこの塚を造ったともいわれている。
相生市にも、まったく同じ六騎塚伝説がある・・

さらに進みます・・


地図6



道は・・大きな倉庫に突き当たって・・

(27)向こう側に回り込む道になった・・

多分、西国街道はこの倉庫の真ん中を通っていたと思います。

回り込みます・・


(28)倉庫の東側に出ました・・


さらに進みます・・


地図7


そろそろ高砂市に入ったようです・・





ピンクのサルスベリ

さらに進みます・・

左側に・・

何か見えます・・

(29)阿弥陀地蔵堂

グーグルマップに載っている



この石は??
調べても判らなかった・・

さらに進みます・・



西国街道らしい門構え・・

左側に
(30)えのき公園

公園のすぐ横に在るのが、
豆崎公民館

時刻は10時・・此処まででほぼ3時間・・

さらに進みます・・


地図8






(31)国道2号線に合流

陸橋の向こう側は、「豆崎」三叉路の信号だが、
西国街道は・・
陸橋の手前にある
(32)斜めの細い道に入ります・・




(33)細い三叉路に出ました・・

左側に「豆崎」の信号が見えてます・・

道は短い県道212号線
信号とは反対側に進みます・・

左側には・・
大日池

さらに進みます・・

前方に高架が見えました・・
この道は、この前の三叉路を超えたら・・
既に
2022.4.10.曽根駅〜加古川駅
において、通った道になります。

左側には・・
前に見た地蔵堂がありますね〜

さらに進みます・・

高架の下には・・
五基の道標
が在るはずでしたが・・

(34)五基の道標が無い

工事中でした、

終わったら、また道標は戻されるようです・・
と言うわけで、
以前に撮った写真を・・

もう一枚、

さて・・そろそろ駅に向かいます・・



(35)JR曽根駅



着いたのは、10時10分
家に帰り着いたのは・・・
11時半ごろでした。

この東側は・・<2022.4.10.曽根駅〜加古川駅

以上